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生成型人工知能は本当に人間を超えるのか?


2023.08.28

by 高野孟『高野孟のTHE JOURNAL』

今や「時代の寵児」的扱いを受け、話題にならない日はないと言っても過言ではない生成型AI。

その能力は近い将来人間を超えるとの意見もありますが、識者はどう見るのでしょうか。


生成型人工知能は本当に人間を超えるのか?/「人知の代わりには決してなりません」という西垣通の説に賛成する

生成型(Generative)人工知能(ArtificialIntelligence)の話題がネットはもちろんマスコミでも溢れかえっていて、英フィナンシャル・タイムズ(FT)も「熱狂は空前の盛り上がりをみせている」と少々呆れ気味である。

グーグルやマイクロソフトなど時価総額1兆ドル超の巨大IT企業が「AIは電気や火の発見に匹敵するようなものだと囃し立て」つつ、先頭を切ってその世界にのめり込もうとしている。

米コンサルタント会社のマッキンゼーの試算では「AIは……63分野で年間2.6兆~4.4兆ドルの経済価値をもたらす可能性がある」とされるが、この額は21年の英国のGDP3.1兆ドルに匹敵する(FT817日付→日経23日付)。

このようなバラ色の夢が膨らむ一方で、米ハリウッドの俳優や脚本家たちが「待遇改善」と同時に「AIに仕事を奪われることへの懸念」を理由に7月中旬からストライキに突入し、今なお解決の目処が立っていないことが示すように、AIそのものに対する恐怖感や頭からの拒絶論もまた広がっているが、私の意見ではそのどちらも極端に走りすぎている。

確かに生成型AIは、注文に応じて膨大なデータを収集してそのパターンを分析し、それらしい文章、画像、音声、音楽、動画などのコンテンツを生み出して見せてくれるけれども、それはどこまで行っても「それらしいだけの擬似コンテンツ」であることを免れない。

その生成型AIの本質を踏まえた上で、この便利な新技術をどう使いこなすかについての人間の知恵の発達が遅れていることの方が問題なのである。

少し冷静にならないと……

AIを技術面からだけでなく文明論として語ることのできる数少ない専門家である西垣通=東京大学名誉教授は、825日付朝日新聞オピニオン欄でのインタビューで、「AIが人間の知性を超える日は来るのか」という問いに要旨こう答えている。

▼少し冷静になりましょう。機械が人間のような知性を持つでしょうか。

 そういう日は来ないし、人間と同様のことができる汎用AIも出現しないと私は思っています。今開発されている生成AI技術は重要です 

 し、使いようによっては人類の役に立つ。ただし、人間の知性の代わりには決してなりません。

 そうしたAIの本質を理解しないまま、ただただ「乗り遅れるな」と活用にのめり込む日本の風潮が心配です。

▼〔生成型〕AIは「正しさ」よりも、大量のデータを統計処理し「確率の高い解」を求めることに重点が置かれているのです。

 長い間、AIは正しい答えを自動的に出す機械とされていたのですが、「誤りを許容する」のは大転換です。

 正確さよりも、一般ユーザーが容易にアクセスできることを優先させている。

 質問に対し、言葉の意味を理解せずに確率計算を行い、もっともらしく易しい文章で答えることで、商業的な成功をねらう。

 でも、一般の人々に「AIは間違えない」といった信頼が残っていれば、正しくない情報が拡散してしまう危険が大きい……。

この意見に賛成である。

「正しさ」の判断は人間しかできない

《西垣発言へのコメント・1

「汎用AI」とは、人間が実現可能なあらゆる知的作業を理解・学習・実行することができる人工知能のことで、業界の多数派は数十年以内に出現可能と主張しているが、西垣と同じく私もそれは出現不能と見ている。その私なりの理由は後述する。

《西垣発言へのコメント・2

生成型AIは「正しさ」よりも、大量のデータを統計処理し「確率の高い解」を求めるものであり、従ってその解が正しいかどうかは確率の問題でしかないというのは、その通りである。それ以前の識別型AIの場合は、予めデータをインプットして正解を学習させておいた上で、問いに対して正誤を自動的に識別させるので、その限りにおいて答えは常に正しかった。そのため、一般の人々は「AIは間違えない」という誤った(?)信頼感を持ってしまったのだが、その感覚のままで生成型AIに接してはいけない。

生成型AIは予めインプットされていない膨大なデータをネット上から勝手に(ということは発注主である我々には知る由もない基準と範囲で)収集して分析して組み立てるので、それが正しいかどうかは確率の問題でしかなく、それが使い物になる答えであるかどうかを最終的に判定するのは、やはり生身の人間だということである。

 

勝手に「幻覚」を生み出す怖さ

前出FT記事に登場する、AIに懐疑的なゲイリー・マーカス=NY大学名誉教授が問うのは、生成型AIのモデルそのものの信頼性である。

▼生成型AIの最大の欠点の1つはシステムが「幻覚」を起こし、〔それらしい〕事実を勝手に作り上げることだ。

▼一部のAIモデルは確率論に基づいて答えを出す機械で、論理的な思考から答えを導くのではなく、データのパターンから答えを 予測する。

▼例えばフランス語で「avocat」は〔果物の〕アボカドと弁護士の両方の意味を持つ。グーグル翻訳の初期バージョンでは、「昼食にアボガドを食べる」とすべきところ「昼食に弁護士を食べる」と訳していた……。

もし人間が翻訳していれば絶対に起こり得ない誤訳を、生成型AIは確率論の名において平気で冒すことが出来るのだ。もちろんこの間抜けとしか言いようのない誤訳を指摘されればグーグルは即刻辞書を手直しし、2度と同じ間違いを起こさないようにすることは出来るだろうが、マーカスによれば、

▼こうしたことはバグ(不具合)ではなく生成型AIモデルの特徴であり、現在の仕組みでは修正できない。

 もっとデータを加えれば使えるようになるという幻想がある。だが、データを増やしても問題はなくせない……。

その通りで、生成型AIが確率論的な正しさしか提供できないという本質を持つ限り、その確率を上げてユーザーの信頼を獲得するには、データの量を増大させるしかないのだが、悲しいかな、そのデータ量をどこまで増大させても100%に達することはない。

だから、冒頭に述べたように、そこから得られるものは、どこまで行っても「それらしいだけの擬似コンテンツ」なのである。

 

ユダヤ・キリスト教的発想の限界

西垣が面白いのは、技術論を文明論と繋げて語ることのできる展開力である。上述の朝日インタビューで、さらに彼はこう語る。

▼コンピューターやAIを生んだ発想は、ユダヤ・キリスト教の特徴を強く持っていると考えています。超越的な唯一の神が万物を創造したという教えからは、人間以外の存在に知性が宿る可能性があるという認識が導かれます。

ですから人間を超える知的能力を持つ機械が出現したとしても不思議はない、ということになる。

▼神の創った宇宙には本来、論理的な秩序がある。そのありさまを正しく認知することが真理の獲得だというのが、西洋の伝統的な考え方です。「はじめにロゴスありき」と聖書にありますが、ロゴスとは論理的言語、真理です。

コンピューターは、開発された当初から、真理を得るための機械として位置づけられていたのです。

▼一神教的世界観のもとでは、時間は宇宙の創造から終末まで一直線に流れるものとされ、そこでは「進歩」という概念が重要です。コンピューターやAIの開発に大きな貢献をしてきた科学者たちも、進歩のために力を尽くそうとしてきたのだと思います。

▼一方で仏教など東洋的な世界観では、時間は直線ではなく循環的です。

 東洋的世界観では、要素同士が互いに関連し、共鳴し合うと考えるので、分析だけでなく身体的直感を重んじる

 これこそAIにとってはとても難しい点であり、AIをうまく活用する際の鍵になる概念だと言えるでしょう……。

 

「身体論」という視点を入れないと

《西垣発言へのコメント・3

ここで彼が、AIが苦手なのは「身体的直感」だと言っているのは正しい。が、それをユダヤ・キリスト教の直線的「進歩」観と東洋的な循環的「共鳴」観の違いという対照から説明しようとしているのは、かなり意味不鮮明である。

もっと論点を絞り込んで、東洋的な身体論に立脚して西欧的な頭でっかちのAI万能信仰に水をブッかけるべきではないか。

その意味で面白いのは、国立情報学研究所の新井紀子教授である。826日付朝日新聞公告版での高宮敏郎との対談で、こう言っている。

AIと人間の一番の違いは、AIは身体を持っていないことです。またすべてを抽象的なデータから学んでいるということです。

 ですから自分の身体や五感を使い、現実のなかでの体験を通して体得した知恵は、人間ならではの最大の武器となります。

▼身体を持たないAIは主体性やコミュニケーション能力、共感性や倫理観といった非認知能力を持っていません。

 非認知能力を身につけるには5歳までの教育が重要だと言われています……。

「認知能力」はIQなど数値化できる知的能力で、それに対して「非認知能力」とは、変な用語だが、それ以外の数値化することが難しい内面的なスキルのことで、具体的には「目標を決めて取り組む」「意欲を見せる」「新しい発想をする」「周りの人と円滑なコミュニケーションをとる」といった能力のことを言うらしい。世の中に出て人間として逞しく生き抜いて行ける「人間的能力」のことだろうか。それを「非認知能力」という、これは一体、学問用語なのか法律用語なのか行政用語なのか、冷たい言葉を充てる神経が理解できないけれども、まあとにかくAIがそういう能力を一切持ち合わせていないのは事実である。

 

高野流「インテリジェンスの三角形」論 

私にとっては、知能あるいは知恵としてのインテリジェンスが「論理=ロゴス=言葉」だけで成り立たないのは自明のことで、2003年から14年まで早稲田大学大隈塾のゼミで「インテリジェンスの技法」を講じた際には、「インテリジェンスの三角形」と題した図を示して説明した。

三角形をなすのは《直感力=体》《想像力=心》《論理力=頭》で、諸君は論理力は多少とも鍛えられているが、想像力は弱く、直感力は鈍くて、かなり酷い頭でっかちのいびつな状態にある。後二者を意識的に鍛えて均等な正三角形を成すようにし、それを時計回りでも反時計回りでもグルグル回転できるように習熟すると、その真ん中に湧いてくるのがインテリジェンスである、と。

直感力を鍛えることは特に大切で、それには何にせよ「本物」に直に接することだ。諸君は視覚と聴覚は使いこなしていても味覚は鍛えておらず、嗅覚も触覚もあまり使っていない。ロックをヘッドフォンで聴いて分かったような気にならないで、ライブの最前列で歌手の撒き散らす唾液や汗を浴び、舞台から舞い上がる埃を吸い、大音量スピーカーの振動を腹に受け、自分も足を踏み鳴らして踊って、全身で感受しなければならない。仏像を写真で見て感心していてはダメで、せめて美術館・博物館で本物に出会ってその前で1時間は過ごしてその全てを感じ取れ。本を読んで面白ければ、すぐに作者に電話して会いに行き、その目の輝きや息遣いに接するのが良い。

とにかく全身を使って五感がフルに働くようにしなければ「第六感」なんぞ閃くはずがなく、つまりは直感力は働かないということだ。

想像力は、差し当たり歴史的想像力と地理的想像力を拡張するよう練習しよう。そのためのヒントはいくつか提供する。論理力も少し鍛え直して、形式論理学的レベルから弁証法論理学的レベルに進みたいので、まずは毛沢東の『矛盾論』を繙いて貰いたい……。

生成型AIはもちろん、将来出来るかもしれないと言われる汎用AIが本当に出来たとしても、体も心も持たないので私の言う「三角形」が形成できず、従ってそれは本物のインテリジェンスにはなり得ないのである。

(メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL2023828日号より一部抜粋・文中敬称略)

 


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