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三権分立の嘘


誰のための法律?今こそ日本古来の究極の民主主義を見直すべき理由

2023.06.13

 by ねずさんのひとりごとメールマガジン

  日本国憲法は政治の三権を分離させ成り立っています。この三権分立について、「嘘がある」と語るのは、作家でユーチューバーの顔も持つ、ねずさんこと小名木善行さん。 


三権分立の嘘

日本国憲法は、権力の暴走を抑えるために、政治の三権を分離させている。

だから日本国憲法は、戦争放棄をうたい、主権在民としている世界に誇る憲法であると、これは日本人なら誰でも学校で教わることです。

ところが戦争放棄に関して言うならば、戦争は自分の国がいくら戦争を放棄したといっても、他所の国に攻めて来られたら、国民を護るために国は戦争をせざるを得ない。

これを自衛戦争と言いますが、自衛戦争は認めるというならば、まったく戦争放棄にはならないし、認めないなら、それは国家生存権自体を否定したことになり、憲法自体への否定につながることになってしまいます。

また主権在民だとは言っても、本来主権者というのは、休戦協定や平和条約を結ぶ際の名宛人のことを言うのであって、その名宛人がいないということは、全社員が代表権を持つ会社のようなもので、これでは大企業は運営できないし、大企業よりもさらに大きな組織である国家の運営もできません。

そして三権分立も、実は、そこに大きな嘘があるというのが本日のお題です。

三権分立の考え方は、西洋の民主主義の発展と深い関わりがあります。

もともと古代ローマの時代を除き、大航海時代から植民地時代にかけてヨーロッパの諸国は、いずれも王権社会でした。国王というのは、その国の所有者です。そして所有者であるということは、その国にある土の一粒、草木の一本から、あらゆる生命体のすべてが国王のもの、というのが基本的考え方です。つまり、民衆は、単に国王の所有物に他ならないわけです。

ところが植民地からのアガリ所得や国王の贅沢のための贅沢品の製造、あるいは武器の製造等によって、次第に市民が経済力を付けてくるようになり、さらに他国の工作活動の援助もあって、ついに勃発したのが、いわゆるフランス革命です。その後、ナポレオンによる王政の復活等、様々な紆余曲折を経て、まずは国王が統治を行う。

けれどその統治については、必要な法を民衆に選ばれた議員による議会が承認しなければ、実行を認められないという形になり、さらに近年においては、王は、国家のシンボル的存在となって政治に関与せず、政治は大統領が行うという形に至ったものです。すなわち、民衆に選ばれた期限付き国王が、いわゆる大統領であり、大統領府が国の統治を行う。けれどその統治が妥当なものであるのか、あるいは妥当なものにするための法律を審議して許可を大統領に与えるのが、議会の仕事となったわけです。つまり議会は、あくまで民衆の代理人であり、その議会が承認した法律に基づいて大統領府が統治する、というのが、その基本的な形となるわけです。

裁判所は、それらが適法に実施されているかを判断するところです。

ここは大事なところなので繰り返しますが、あくまで大統領が事実上の国王であり、国の統治は国王である大統領が行うのです。その統治の可否判断をしたり、国王に、「これもやってください」とお願いするところが議会という構造になっているわけです。

ところが戦後の日本に与えられた日本国憲法下の体制は、昭和22年、つまり日本がGHQによって占領統治されていた期間にできたものです。そして占領統治下にある日本における、実質的な大統領、もしくは国王は、連合国最高司令長官であるマッカーサーであったわけです。つまり日本国憲法で予定されている体制は、マッカーサーという国王がいて、天皇をシンボルとして、内閣に国の統治をさせる。

その統治にあたり、多少の意見は民衆の代表者である議員から聞く、という体制に他なりません。

ですから、国会が「立法府」だなんてとんでもない話で、国会は内閣が示した法案を審議して、多少難癖を付けたり、修正を加えたりといったことが仕事になっているわけで、これは国会議員が民衆の代表という立場を取っていることによります。

ところが、ここでいう民衆がまた問題です。議員は、票がなければ資格を失いますから、もっぱら団体や組織の票を取りに行くことになります。

つまり利害関係人の言うことを聞くようになるわけで、そうなると、一部の横車を押してでも利権が欲しい人たちの団体票が、もっぱら頼みの綱になるわけです。

我が国では古来、より多くの人々の役に立つことをもって「公(おほやけ)」としてきた歴史を持ちます。

ところが議会制議員の仕組みは、一部の人々の利権の代表者という形になってしまっているわけです。

そうなると、もっぱら損害を被るのは、一般の、より多くの民衆ということになります。

つまり議会制民主主義は、理想型ではないけれど、他に代替のしようがないシステムといわれますけれど、根本的な間違いを実ははらんでいるのです。

一方、我が国が古代において実現した統治システムは、すべての民衆を、国家最高権威である天皇の「おほみたから」とします。すなわち政治を行う「臣」は、もっぱら民衆に尽くすことが仕事になります。

そして民衆の意向は、民衆の誰もが参加する土地の氏神様の神社に月に一度は村人全員が集まって、そこで協議され、神社の宮司によってそれが都の神祇官に上奏され、神祇官は天皇の直轄機構として、そうしてあがってきた民衆の意向を天皇に伝える。

天皇が承認しなければ、あらゆる法は実行できない仕組みですから、怪しげな、民衆のためにならない法は、そこで却下されていくという仕組みになっていました。これは、ある意味、究極の民主主義といえる仕組みです。 

日本は、明治以降、ひたすら西洋文化をありがたがってきましたが、そろそろ目を醒まして、我が国古来の秀逸なシステムについて、見直すべき時にきているといえるのではないでしょうか。


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