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サントリーが美術や音楽に「お金をかける」深い訳

二代目社長の佐治敬三が語った文化事業への思い

野地 秩嘉 : ノンフィクション作家

2021年08月15日

 優れた経営者たちの決断が世の中に受け入れられたのはなぜなのか――。

ノンフィクション作家の野地秩嘉氏が上梓した『あなたの心に火をつける超一流たちの「決断の瞬間」ストーリー』から一部抜粋・再構成してお届けします。


1919年11月1日 サントリー創業者の鳥井信治郎の次男として大阪で生まれる。小学校の時に母方の縁者と養子縁組をして「佐治」姓となったが、そのまま大阪の実父母のもとで暮らした。1940年に、実兄が死去。

1942年4月 大阪帝国大学理学部卒業

1945年 サントリーの前身である壽屋に入社

1946年 壽屋(現サントリーホールディングス株式会社)の全額出捐により、財団法人 食品化学研究所を設立、初代所長に着任。

1961年 壽屋代表取締役社長に就任

1963年 壽屋からサントリーに社名を変更

1971年 関西公共広告機構を設立(現在のACジャパン)

1976年 藍綬褒章を受章

1979年 食品化学研究所を財団法人サントリー生物有機科学研究所と改称

1980年 生物有機科学研究所理事長に着任し、日本で初めてポストドクトラルフェローシップを開始した。

1985年 大阪商工会議所会頭に就任

1986年 フランス芸術文化勲章を受章

1987年 大阪バイオサイエンス研究所設立に諮問委員として関与した。

1988年 東北熊襲発言による舌禍騒動を起こす。

1989年 勲一等瑞宝章を受章

1990年 サントリー代表取締役会長に就任

1990年 フランスレジオンドヌール勲章を受章

1999年11月3日 大阪府吹田市で肺炎のため80歳にて死去     (出典: ウィキペディア)



* サントリーの企業イメージをつくった佐治敬三

——洗練というより洒脱(しゃだつ)な会社

——赤玉ポートワインから始まり、ウイスキー、ビール、天然水、健康食品などへ扱う商品を上手に増やしている

——宣伝広告、広報に長けている

——美術、音楽といった文化事業に献身的に貢献している

以上が今のサントリーという会社のイメージで、そうした企業イメージをつくりだしたのが二代目社長の佐治敬三だ。

そして、佐治の生涯における大きな決断の瞬間は3つあった。

佐治敬三が寿屋(サントリーの前身)に入社したのは敗戦の年、1945年である。

創業者で父親の鳥井信治郎から命ぜられ、進駐軍の将校、下士官にウイスキーを売り込むところから始まり、4年後には専務となる。専務となってから、社長(1961年)、会長(1990年)までの間、やり続けたのは前半はウイスキー、途中からはビールの普及だった。

やらなくてはならなかったことは、まだウイスキーを飲んだことのない消費者に、たとえ一口でも舶来の酒を飲んでもらうことだったのである。

私は生前の佐治に二度、インタビューしたことがある。

また、サントリーホールで公演を見ていたら、ラウンジで出会い、声をかけられ、立ち話をしたことがある。

すでに大経営者だった。彼が話をしたジャーナリストのなかでは、おそらく私が最も若い部類に入るだろう。

彼自身、インタビューでは「ウイスキーはまだぜいたく品だった」と語っていた。

「ウイスキーもビールもぜいたく品だった。家庭に冷蔵庫が普及していなかったから、氷がないし、冷やすこともできん。金持ちは井戸でビールを冷やして飲んでおったけれど、それはごく少数のこと。一般の人が飲むのは日本酒、あるいは焼酎か。あのころはよう日本酒ばかり飲んどった(笑)」

専務になった年の5月、全国の飲食店営業が再開された。

佐治の証言にあるように、家庭でウイスキーを飲む人はほぼ皆無だったから、寿屋は料飲店にウイスキーを売り込み、かつ、一般消費者にはウイスキーとはなんたるものかを知らせる必要があった。

そこで宣伝に力を入れた

当時はまだ新興メディアだったラジオ、テレビを活用し、最高で24万部という大部数のPR誌『洋酒天国』を制作し、全国で配った。つまり、最初の大きな決断とは、宣伝に力を入れること、優秀なクリエーターを集め、敬意をもって接することだった。そして、佐治が出会った最高のクリエーターは作家の開高健だった。

 

*「最高のツレやった」作家・開高健の才気煥発

「僕は小学校の時分から早熟で宣伝文句を考えたり、絵を描いたりするのが好きだった。自分でもコピーを書いたりしたけれど、でも、もっとええ人間がおったら採用しようと虎視眈々としておった。開高はうちで働いていた牧羊子(詩人)の旦那だ。僕は開高が『えんぴつ』という同人誌に書いた編集後記が心に残っていたから、一度は会いたいと思っていた。

あるとき、彼女が『子どもができたんやけどダンナ失業しましてん。寿屋でやとてちょうだい』と言ってきた。

『よっしゃ、それならあんたとトレードしよやないか』

それで入社してきたんだよ。入ったばかりのころ、開高は『発展』という酒屋さん向けのPR誌の仕事をしていた。

地方を回って酒屋のご主人に話をうかがい、店頭の写真も撮る。写真を撮るとなると棚の酒もきれいに並べるし、当社のウイスキーを前に出してくれる。それがこっちのメリットになるわけやな」

佐治は開高の人間と才能と文学のすべてが好きだった。

開高が社員として働いたのは5年ほどで、後に関連会社の嘱託になる。

佐治はビールを発売する前も、開高に相談し、一緒に欧州まで出掛けていった。

佐治は「開高は最高のツレやった」と言っていた。

「あいつはまだ痩せていたな。才気煥発で非常に真面目な男なんだ。何をやらせても仕事の手は早いし、そもそも人間の出来が違う。僕は宣伝のコピーにはうるさいほうで、よく筆を入れたりしたが、開高のコピーだけはとてもそんなことのできる余地はなかった。うちにいた時間は短かったが、その後も深く関わって従業員以上に働いてくれた。

『人間らしくやりたいナ』というトリスのコピーもあれは退職後の仕事です。

『ナ』というカタカナにしたところが味噌なんでしょうな、きっと。あいつは経営者としても立派になる素質を持ってましたから、あのまま辞めずにいたら取締役どころかサントリーの社長になってました。

ほんまに、あの時代は誰もかれもみんな気が違うくらい仕事してた。朝から晩まで働いて後は酒を飲むだけや

みんなが『狂』の時代で、何かに取り憑かれるように仕事をしていた。誰かに怒られるから仕事をしようというのでなく、さりとてやらねばならないと目を吊り上げたわけでもない。周りの『狂』に同化してしまって、いつの間にか働いていたんだな」

佐治が大切にしたクリエーターは開高一人ではない。山口瞳もむろんそうだ。そして、他にも大勢いる。

彼が立派なのは仕事をしたクリエーターに対して、決して「出入り業者」の気持ちを抱かせることがなかった点だ。

相手がどんな若造だったとしても、「先生」と敬い、応接した。こういうことができる経営者はまずいない。

経営者だからと言ってやみくもに威張ることはなかった。

そして、今もサントリーは佐治の気風を受け継いでいる。

以下はアートディレクターの長友啓典氏から聞いた話だ。長友氏はサントリーの仕事をいくつもやっていた。

なかでも伊集院静氏とふたりで、成人の日、入社式の日の同社新聞広告を長く担当していたことは知られている。

2017年に亡くなってしまったけれど、長友さんはため息をつきながら、こんなことを教えてくれた。

「野地くん、サントリーの仕事をやらなあかんで」

「どうしてですか」

「あのな、この前、入院したときのことや。病室が決まって、ベッドに入った途端にサントリーの秘書がやって来て、『お見舞いです』と結構な額の見舞金を置いていくわけや。そんな会社、あそこだけやで。僕ら社員でも何でもないんやからな」

「それはすごい。長友さん、僕らクリエーターは病気しないと損ですね」

 

* クリエーターに接する態度が違う

1954年に佐治が開高を入社させ、コピーライターとして、小説家としての才能を開花させた

そして、外に出た開高を弟のようにかわいがった。もちろん、開高はサントリーの仕事には特別の熱意を持って体当たりした。クリエーターはギャラが多いほうがうれしい。しかし、ギャラだけではない。

敬意を払ってくれるクライアントとの仕事ならば、たとえ火の中、水の中といった気持ちになる。

サントリーの広告宣伝が他社のそれよりも優れているのはクリエーターに接する態度が違うからだ。

そして、それは佐治が開高健に対して始めたことなのである。

そのことをインタビューで指摘したら手を振って「そんなことはないよ」と言っていた。

本心を悟られるのが嫌というタイプだった。

だから、聞いてみた。

「佐治会長、人生訓とか座右の銘はあるのですか」

無愛想な答えだった。

「僕はね、何ものかにとらわれるということが好かんのです。ポリシーとか座右の銘とかそんなものない。何をやるにしてもポリシーなんて考えたこともない。まったく行き当たりばったりの人生や」

寿屋が初めてビールに挑戦したのは戦前のことだった。

創業者、鳥井信治郎は1929年に新カスケードビール、1930年にオラガビールを発売したが、業界大手にかなわず6年後に撤退。信治郎は歯噛みして悔しがった。撤退から二十数年を経て、二代目の佐治は自宅で静養していた父親、鳥井信治郎の枕元で、ある決意を打ち明ける。

「ビールに挑戦したい」

信治郎は「人生はとどのつまり賭けや」と言ってから、低い声で続けた。

「やってみなはれ」

サントリーがビールを発売したのはそれから3年後、信治郎はすでに鬼籍に入っていた。

佐治がビジネスで最も大きな決断をしたのは、ビールへの再進出である。

 

サントリーがビールに進出した理由

進出する理由はふたつあった。

ひとつはウイスキーは売れて売れて繁盛していたけれど、経営の柱が一本だけでは心もとないと思ったこと。

大きく成長する新事業が欲しかったのだ。

ふたつめはウイスキーとビールは隣接しているから製造については自信があった。

ともに原料は麦芽と水である。加えて、当時はすでに家庭に冷蔵庫が普及していた。

製氷機の氷でサントリーウイスキーを飲む消費者が大勢いた。

佐治がやろうとしたのは冷蔵庫のなかにサントリービールを1本でも2本でも入れてもらうことだったのである。

サントリーにとっても「いまが千載一遇のチャンス」だったのである。

だが、当初は大苦戦し、佐治は自らセールスマンとなってビールを売り歩く。

「始めたころはサントリーのラベルが付いとるだけでウイスキーくさいと言われてちっとも売れん。

バーや酒屋さんへ行ってもセールスは言うに及ばず、配達を手伝ったり、子守をやったり、料亭では下足番をやったり、まあ、たいていのことはやりましたな。そのうちに、うちのビールを扱ってくれる酒屋さんが増えてきて、若獅子会という親睦会をつくったんですわ。ヤングライオンの会。なんでやと言ったら、強いライオンになって、キリンの足を食いたい、と。はい、ネーミングは僕です」

私がそんな話を聞いたのは1995年のことだった。

同社ビールのシェアは6.7%。首位のキリンビールは47.5%もあった。

ところが2016年にはサントリーのシェアは15.7%になっている。

一方、首位だったキリンビールは業界2位に落ち、シェアは32.4%だ。

20年間で、ライオンはキリンの足を食べてしまったのだ。

ビールに進出し、一定の成功を収めたことは同社と社員の体質を強化した。

以降、「やってみなはれ」の商品群が次々と誕生する。1993年にはゴマの栄養素を含む健康食品セサミンを発売。

サントリーは今では健康食品業界のトップメーカーとなっている。

2004年には世界で初めて青いバラを誕生させた。発売は2009年からである。

このふたつでもわかるように、サントリーの新事業は他社の追随ではない。

参入するにはハードルの高い業界、もしくはまだ誰もがやったことのない業界を目指して、新商品を開発する。

だからこそ、「やってみなはれ」という言葉がぴったりくる。

 

* ビールのCMソングを自ら歌う

佐治敬三はビールの販売促進について、私にこう語った。

「社員の足腰を強くするために始めたビール事業だったが、私自身のためにもなった。いい年して、自らビールの売り込みやってますから。大阪商工会議所の会頭(1985~92)をやっとったんだが、会議に出席するのに胸にサントリービールと書いてあったワッペンを付けて出席したんですわ。ちょうど社内でビールのキャンペーンをやってたものですから。

すると『公的な機関で自社の宣伝をするとは何事か』と物議を醸しまして。まあ、それがやっと商工会議所の乾杯でサントリーも使ってもらえるようになりました。宴会でもパーティーでも、僕はうちの商品のCMソングを歌ってます。社長でも自分とこの会社のCMソングを歌えん人なんていっぱいおるでしょう。でも僕はおっちょこちょいですから、平気で歌ってます。だが、そのおっちょこちょいのところがいいんじゃないかと自分ではそう思うてます」

インタビューの際、話がCMソングになったら、「ちょっとやってみましょうか」と立ち上がった。

おもむろにアメリカ西部のカウボーイが着けるようなベルトを取り出した。ベルトに革製のスリッパがはさんである。ベルトは特製で社長室に常備してある。

彼がラジカセのスイッチを押したら、60年代に流行ったテレビ映画『ローハイド』のテーマが流れ出した。彼はごにょごにょ歌ったかと思うと、カウボーイが馬に鞭を当てる効果音と合わせて、「バシーン」とスリッパで机を叩いた。

「ビールはサントリーでっせ」

そう言って笑いかけた。寡占のビール業界に挑むのは大変な苦労だったろう。

自らスリッパを鳴らしながら、販売の先頭に立った。

現在、同社のビールが先行した3社を侵食しつつあるのは彼の大きな決断の結果だ。

彼にインタビューした1995年、初めて「先生」と呼ばれた。

「野地先生、ご本は拝読しております」

最初の本『キャンティ物語』を出した後だったけれど、まさかサントリーのトップが若造の本を読んでいるなんてことは想像していなかった。だが、会長室に招かれて、「ほんとに読んでる」と確信した。

大きなデスクには100冊以上もの本が乱雑に積み重なっていて、ドイツ語の原書から若者向け雑誌まであった。

『キャンティ物語』の単行本が一番上に置いてあって、ページが開かれていた。芸が細かいのである。

私はこれまでに何十人もの経営者に会ったことがあるけれど、あれほど雑多な本を大量に積み上げて読んでいたのは彼だけだ。同時に、あれほど整理されていない会長室を見たのも、最初で最後だった。

それから一年後、ふたたび佐治にインタビューした。

作家の山口瞳さんが亡くなった直後でもあったから、「開高(健)も山口も先に逝きやがって」と涙もろくなっていた。

そして、「今は絵を描いている」とイーゼルに掛かった風景画を見せてくれた。なかなかビジネスのインタビューに入らなくて、じりじりしたことを覚えている。

私は「オーナー会社のいいところと悪いところ」を訊ねた。

彼はすぐさま「オーナー会社に悪いところは何もありません」と胸を張った。

次に「イギリスのビクトリア女王は『君臨すれども統治せず』と言っています。サントリーの場合、鳥井家はどうなんですか」と聞いたら、すごくうれしそうな顔で答えた。

「それは、決まっとる。『君臨しつつ統治する』だな」

それからは事業の話ではなく、オーナー企業がやるべきことについて、語り始めた。

それがサントリー美術館、サントリーホールなどの文化事業だったのである。

佐治にとって大きな決断の3つ目はビジネスではなく、文化事業をやること、やり続けることだった。

 

* 「文化」こそ、本物でなければ

彼は文化事業についてはこう言っていた。

「こういうところがオーナー企業の良いところです。文化、文化と言うけれど、社長がコロコロ変わる会社は美術館なんて造れんでしょう。いまや世の中ではオーナー企業や同族企業なんてのは非難の対象になってますけれど、志とか夢を継続的に実現できるのは、そりゃ、オーナー企業だからですよ。

美術とか音楽も昔からやってきたから、やっとうちの特色になってきているんです。酒と文化が一体化しているように見えるかもしれません(笑)」

サントリー美術館は、1961年、東京・丸の内に開館、1975年には赤坂見附に移転、2007年に現在の東京ミッドタウンに移り、開館している。

サントリーホールは1986年の開館で、2017年には30周年を機にリニューアルした。

どちらも佐治敬三が始めたものだ。

彼が言ったとおり、オーナー企業でかつ、志と夢のある人間でなければ美術や音楽に金をかけようとは思わないだろう。

彼は見栄で文化を理解していたわけではない。クラシック音楽が好きな人だった。

私はサントリーホールに行くと、必ず彼に出会った。片隅の席でじっと演奏に聴き入っている姿を見た。

館のロビーやラウンジで同社の社員に指示したり、怒ったりしていたこともあった。

サントリー美術館では本人に出会ったことはなかったが、会長室のデスクには美術館のカタログが全巻、置いてあった。

文化事業をやることは「会社のイメージを向上させるため」と建前では言っていた。

けれど、本当のところは人生が仕事だけじゃ面白くないと思ったから、音楽や美術に金を使ったのだろう。

それも大金を使った。サントリー美術館には国宝を買い入れ、サントリーホールにはパイプオルガンを設置した。

佐治は本物が好きだった。ウイスキーもビールも本物でなければならないのだから、美術も音楽も本物だけを愛した。

 

* 「人間は面白くなきゃいかん」

私にも「文化こそ本物でなければあかん」と語っている。そして、「人間は面白くなきゃいかん」とも言っていた。

「いまマルチメディアとかの美術館もありますが、私にはつまらんですね。コンピューター映像とか、何とかリアリティーとか言ってますが、オリジナルの芸術でなく編集したものですから(注:当時はほとんどそういうものだった)。

いま、うちの会社は開高がおったころのようなシャープな面白さを追求する気風が衰えてますな。

これは社会全体が悪しき官僚化に陥っているせいやと思う。

大企業になればなるほど優等生で、しかも官僚的なやつがエラくなっとる。うちでも若い人と話をすると優秀な人ほど考え方が官僚的や。話してもおもろない。受け答えはできるが、肝心の人間の面白さがないからあんまり仕事はできません。

つまり、人間が面白くないと酒は売れん、会社も儲からんということですな」

そう言って、わっはっはと哄笑(こうしょう)し、その後、小さな声で「おもろない人生はつまらんでしょ」と続けた。

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なぜ幼少期に刷り込まれた「親の教え」は人を一生縛り続けるのか?

2021.08.13

幼い頃に親に教わったことは、自分の人生の基盤を作ります。

しかし、それに縛られすぎてしまい、大人になっても親の教えの悪い部分から抜け出せないという人も多いのではないでしょうか。

心理カウンセラーの吉田こうじさんが、自身も親の教えに縛られてきたとして、その体験を明かすとともに「呪縛から脱却する方法」についてお話ししています。

 

* 幼い頃に身につけた親の教えを改めて疑ってみよう

僕は幼い頃に「世の中には悪人が多い」ということを、何かにつけては母親から教え込まされていました。友達関係についても「あんな子と遊んではダメ」と、何かと口を挟んできたことを覚えてます。

そうやって友達関係にまで「親の価値観」でいいとか悪いとかジャッジを受けているうちに、いつしか自分の選択や決断を、自分で信じることができない、周りの顔色を伺う子供になっていきました。

自分で自分のことを疑い信じることができない…。つまり自分に自信を失っていたのです。

自分のことを信じられないということは、他人のことも信じることができません。

なので、他人に心を開くことができない、恥ずかしがり屋で内気で、癇癪持ちな子供でした。

私たちは幼い頃から体験を通して与えられた環境を生き延びる術を身につけていきます。

そして、その時、最善と思われる術を使って生き延びているうちに、いつしかそれが習慣化(癖)となり、あたかも持って生まれた人格かのように心の奥深くまで浸透していきます。

当時の僕が身につけた最善の生き残り策は、たとえば

 ・とにかく目立たないこと

 ・表面上愛想よく取り繕うこと

 ・取り繕うために嘘を磨くこと

 ・本音がバレないようにすること

こんな感じでした。

なので、近所の人たちからは愛想のいい可愛い坊ちゃんみたいなことをよく言われてました  ^_^

でも、心の中では、いつも何かに怯えて何かが心配で、後ろめたさをずっと抱えていました。

そして、そんなビクビクしなければならない社会全体に対して、漠然とした憤りも感じてました。

他人の幸福を妬み、他人の失敗を非難するばかりで、自分自身が本気で幸せになるために前向きな努力をすることは完全に放棄していたのです。

そんな僕も思春期に入った頃から、徐々に自分の古い殻を壊し始めたのですが、それでも「脱皮できた!!」と心から実感できるようになったのは、実は中年期に入ってからのことです  ^_^

それくらい、幼い頃に身につけた最善の策に、自分が今も縛り付けられていることに気づくことすらできませんでした。

 

「ありのままの自分」を見つめ直そうとする時、「どんな親に、どういうことを教わってきたのか?」から先に見つめ直した方が、実は自分のことがわかりやすかったりします。

特に人生でうまくいっていないジャンル…例えば、恋愛とか友達づきあいとかお金とか…そういった、うまくいっていないジャンルがあるなら、そのジャンルについて「親からの教え」を振り返ってみるといいかもしれません。

例えば…誰かと深い関係性になってくると、なぜかいつも冷めてしまったり、なぜかいつもトラブルが増えたりして、関係性が長続きしない…なので、余計に相手の顔色を伺ってしまう…。

こういう場合、もしかしたら幼い頃に身につけた「当時は最善だった人間関係の中で生き残る術」を、大人になって状況や環境が全く変わった今も無意識に発動しちゃっているせいかもしれません。

そういう場合、いくらコミュニケーションテクニックを学んでも、テクニックが上滑りするどころか、むしろ逆効果となって自分に返ってくることがあります。

なので、まずは「どんな親だったのか?」「その親からどんな教えを得たのか?」を、しっかりと見つめ直してみるといいと思いますよ !



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