仕事のできない人は「人間洞察」の本質を知らない


楠木建×山口周「首尾一貫した人間なんていない」

楠木 建 : 一橋ビジネススクール教授  /  山口 周 : 独立研究者・著作者・パブリックスピーカー

2021年08月11日

「仕事ができる」といわれる人たちは、いったい何がすごいのか――。

その答えが可視化されない「センス」であると喝破するのは、一橋ビジネススクール教授の楠木建氏と独立研究科の山口周氏だ。

外国語やエクセル、プログラミングなどの「スキル」を上達させるノウハウに関しては無数の指南書が出ているが、センスを身につける方法に関しては、皆無と言っていい。なぜなら、センスを磨くための定型的な方法はないからだ。 

 

それでも知りたい、仕事における「センス」を磨くためのヒントとは――。

2019年発売の同名単行本を新書化した『「仕事ができる」とはどういうことか?』より一部抜粋、再構成してお届けする。

センスメイキングとは「人間洞察」

楠木建(以下、楠木)最近いい例だなと思ったことのひとつに「Suica」の改札機のデザインをした山中俊治先生(東京大学生産技術研究所教授)の話があります。山中先生によると「デザインの本質というのは、それを使うお客さんが無意識に使いこなせるところにある。その意味でのデザインは最高度の人間洞察を必要とする」とおっしゃるんですね。

だいたいSuicaの改札機の形状なんて、普段、誰も意識して見ていないし誰も覚えていない。それがいちばんいいことなんだって言うんですよ。デザイナーというと創造性に満ちていて自分の個性爆発で……というイメージですが、実際は自分を限りなく小さくしていかないと、本当のデザインはできない

初めにSuicaの技術が出てきたとき、切符を中に入れる改札機はあったんだけれども、「かざす」という行為についての理解というか、そもそも概念が人々の中にない。しかもかざしてもらって一定時間そこでスローダウンしなければいけない。そうやって待ってもらわなきゃいけないというのが技術的な要請としてあった。そこをどうすればいいのかということが、Suicaの改札機のデザイン上の重要な問題だった。

そこで山中先生は人間の本能に立ち戻って考える。で、光るとそれに反応する」とか「ちょっと手前に傾いていると少し速度を落とす」というアイデアを得るんですね。そういう人間の本能の理解を形状化するということが、デザインの本質なんだという話です。これも要するに人間洞察ですね。

山口周(以下、山口)デキる人というのは総じて「人間をわかっている」ということなんでしょうね。 

 「人間」というシステムを部分化せず、総体として洞察している。スティーブ・ジョブズは市場調査に非常に否定的でしたけど、これがウケるかウケないかを直感的に把握できるということは「人間をわかっている」ということで、それをわざわざ調査してデータを集めて「購買意向は◯パーセント」みたいに検証しないと前に進めないというのは、「人間をわかっていない」からということなんでしょうね。

楠木もうひとついい例だなと思ったのは、レゴブロックの衰退と復活という話。

一時期のレゴの衰退は子どものデータを集めすぎたことが原因だったというんですね。ずいぶん前の話ですけど、ユーザーである子どものデータ、要するにビッグデータのはしりみたいなデータをさんざん集めていったら、明らかに傾向として得られたのが「最近の子どもは以前と比べて注意が散漫である」ということ。これはレゴには適していない。ではなぜそうなったのかと言えば、テレビゲームみたいなものの影響で、高刺激性のものには即時に反応するという。これについてもデータとして出てきた。子どもの遊びがどんどんテレビゲームに代替されているなかで、クチュクチュとやっているレゴみたいなものは、もう難しいのだというような諦めをレゴのマネジメントが持つようになった。だからキャラクタービジネスでディズニーみたいな会社になろうとした。

しかし、それによってますます業績が悪くなったんですね。そうしたなかで復活するきっかけになったのがなぜ遊ぶのかということを改めて考えるということだったんです。目に見える現象だけ、傾向だけを追いかけていくとテレビゲームの優勢は揺るがない。

しかし、集計レベルの平均値ではなくて子ども1人ひとりをじっくり観察していくと、十分にレゴに夢中になっていることがわかる。だからもっとブロックに回帰していったほうがいいんじゃないかという話が対抗馬として出てきて、結局はそれが復活の糸口になった。

これは最近のデータ至上主義の落とし穴みたいな話で、実は世の中にはそういったデータによる弊害がけっこうあると思うんです。人間洞察というのは1人の人間の中にある、ものすごく複雑なメカニズム理解みたいなことなので、データを集計して平均値とか傾向とか相関を見るということとは、あまりうまくフィットしないと思うんです。

「いいものはいい」と言える度量

山口もともと「遊び」自体がリベラルアーツのど真ん中のテーマですよね。

人間はなぜ遊ぶのか。オランダの歴史家、ヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』という本を書いていますけど、これって「遊び」が文化をつくったっていうことを論証している本ですからね。一方でデータは調査設計者が検証しようとする一面しか示しませんから、確証バイアスをさらに強める傾向があります。

やっぱりデータだけで「人間」を把握することは難しいんだと思います。人間というのは部分としては矛盾していたり整合していなかったりするので、部分の足し上げだけで理解しようとすると破綻してしまいますからね。

楠木しかも人間ってそれほど一貫していないものなので、ますます人間の本性や本能についての洞察が重要になると思うんですよ。

山口「役に立つ」ということで価値を出そうとすればデータとスキルはとても有用でわかりやすいんですけど、「意味がある」で価値を出そうとするとデータもスキルも役に立たない。そこで求められるのは「人間性に対する洞察」で、これがこれからは競争力の中核になっていくんでしょうね。

楠木人間洞察ということで言うと、前にも話に出たマツダという会社も僕はいいなと思いますね。この会社の特徴として、ほかの会社のクルマであってもいいクルマはみんなすごく褒めるらしいんです。

山口そうなんですか。それは国産車でも?

楠木ええ、国産車でも海外のクルマでも、その辺が実に素直というかおおらか。メルセデスが今よりもずっとコストをかけて造っていた、モデルでいうとW124っていうんですかね。

山口Eクラスですね。

楠木それでマツダの人たちは「あの頃のベンツは、ここがほんとすごかったよなぁ」みたいな話を嬉々としてするというんですね。この辺がなんとも上品でいいと思うんです。

山口これもやっぱり「自分が小さい」という話ですね。たとえ競合が造っているものであっても「いいものはいい」と言える度量ですね。

いわゆる「三大幸福論」のうちのひとつを書いたバートランド・ラッセルというイギリスの哲学者がいるんですが、ラッセルの『幸福論』の根本にあるのは「自分自身に興味と関心を向ける人は必ず不幸になる」ということなんですよね。ラッセルは哲学者・数学者として名を成した人ですが、活動家でもあり非戦論を唱えて投獄されたりしながらも、最後にはうつ病も治ってとてもハッピーだった。

何度も離婚と再婚を繰り返しているので、「そりゃあお前はハッピーだっただろう。でも周囲の人がどうだったかはわからないぞ」とも思うんですけど、それはともかく、彼が人生において重要だったと言っているのは「自分には数学と哲学があった」ということなんです。
つまり謎を解きたい、わからないことを明らかにしたいという気持ちが強くあって、常に関心が外に向いていた。だからこれも楠木さんの言葉で言うところの、自分がすごく小さいんですね。

楠木そうですね。

山口とにかく解きたい謎とか、気になっているわからないことがあって、それが解けるかどうかということでずっと生きてきたら、人生を振り返ってみると結果的に「まあ、いい人生だったな」ということになったと言うんです。

データでは見えない人間の「矛盾」

楠木警察官なのに万引きしたとか、学校の先生なのに痴漢で捕まったとか、そういう事件がときどきありますね。新聞のコメントとかでは「信じられない」という声が出てきますが、僕は「人間ってそういうもんだよな」と思うんです。もちろん犯罪は犯罪ですが。矛盾が矛盾なく同居しているのが人間ですよね。そんなに首尾一貫した、言い換えればつるりとした人はいない。

山口まったくそうだと思いますね。基本的に「破綻している」のがデフォルトの人間の状態ですよね。サマセット・モームも「長く生きてきたけど、これまで首尾一貫している人間なんて見たことがない」と言っていますし。

楠木日本経済新聞で読書にかかわる随筆の連載をしたことがあって、そこで書いたことなんですけど、松下幸之助って本当に言葉が強い人で、だからこそ『道をひらく』(PHP研究所)という本が今でもベストセラーになっている。あれは本当に素晴らしい本だと思うんですよ。

言葉にしてしまうと「自分の道を生きろ」とか「素直な心」とか……読み手からすると「まあ、そうだよね」っていうだけのことになってしまうんですが、短い文章のなかで選ばれている言葉や言い回しには本当に迫力がある。これはなんでだろうと思ったときに、『血族の王 松下幸之助とナショナルの世紀』(岩瀬達哉著/新潮文庫)という人間・松下幸之助の負の側面も直視した評伝があるんですよ。これがまた面白いんですね。

松下幸之助さんにはお妾さんがずっと別にいて、一緒に事業をつくってきた奥さんをないがしろにしていたとか。それから、経営者としてはある意味健全だと思いますけど、儲けに対するものすごい執着があったとか。あと時代が変わっていっても過去の成功パターンに執着して、どうしても重要な意思決定ができないとか。

いちばんモメたのは、袂を分かった井植歳男(いうえ・としお)さん(松下電器産業=現・パナソニックの創業メンバー、三洋電機の創業者)との確執。それから自分の子どもにどうしても会社を継がせたいんだけれども、上場企業なのでそう簡単ではなくて迷走したりとか。

実際は「素直な心」どころではないのですが、だからこそ僕はこの本を読んで、ますます松下幸之助への尊敬の念を強くしました。松下幸之助ほどの人でも自分の中に矛盾を抱えている。そういう自分だからこそ、本当に気合いを入れて念じるように素直な心が大切だと説いた。だからこそ言葉に力があるし、世の中の人々の心に訴えたんだと思うんです。

一流の人は「自分が小さい」

楠木山口さんがご本で書かれていた「大人とおっさんの違い」というのも、この話とけっこう絡んでくるんじゃないかと思います。

何かこう、人間理解が平面的な人というのがダメなんじゃないかなという。一流、二流、三流を区別するポイントとして、二流の人というのは「自分が二流だということをわかっている」けれども、三流の人は「そういう意識がない」ということなんですよね。これがすごく面白いなあと思って。

山口一流の人になるともう、二流とか三流などという評価自体がどうでもいいし、気にならないと思います。

楠木そうなんですよね。

山口確かに、この話も「自分が小さい」という話に通じますね。

楠木あと二流の層の厚さみたいなものって、けっこう社会として健全だということですよね。三流が増えちゃうと問題なんだけれども。

山口僕が本に書いた話はかなり概念的なものなんですけどね。

楠木若い世代がすごく「おっさん攻撃」をするじゃないですか。その気持ちはよくわかるんですよ。劣化したおっさんが身の回りにいっぱいいる。ただ、前にも話しましたが、年齢が若かったとしても、自制がなくて、今ある出来合いの価値基準にやすやすと乗っちゃうような人は、若くても「おっさん化」しているわけですよね。

山口そうですね。システムに無批判に最適化しようとする、世の中から与えられたモノサシを疑わずに駆け登ることに血道をあげる、というのがおっさんの基本行動ですから、年齢にかかわらず、例えば就職偏差値の高い企業をひたすら目指して就職活動している一流大学の学生なんかは「おっさん」に分類されることになりますね。

楠木だから例えば、自分の小ささということで言うと、ポイントは一般に「謙虚」といわれていることとはちょっと違うんですよ。「政治的な屈辱は安い。政治的屈辱をやりすごせるヤツが強いんだ」みたいな話をロシアのプーチン大統領がしていて。

「屈辱に耐える」とは損得勘定

山口なるほど、「屈辱に耐える」というのは謙虚さとか美徳の問題ではなく、損得勘定なんだということですね。

楠木政治的な屈辱を受け入れないというのは結果的にコストが高くつくんですね。

日本の戦時の戦争指導者は、その屈辱に耐えられなかった。それが結果的にひどいことになったわけで。政治家に限らず、大人にはうまくいかないことがいっぱいあるんだけれども、それをニヤリと笑って受け止める。誰が言っていたのかは忘れましたが、いちばんいけないのは「他人の力を借りて雪辱を果たそうすること」。

山口確かに、かつてのドイツもそうでしたね。ナチスというのはベルサイユ条約で連合国から与えられた屈辱を発射台にして議席の過半数を獲ってますからね。屈辱をバネにしてこれを果たそうとするとロクでもない結果しか待っていないと。

楠木そうですね。それとか外交的に他国の力を借りて雪辱しようとするとか。

山口屈辱に耐えているという人がいて、それが美徳や謙虚さの故なのか、損得勘定の故なのかは、なかなか外から見ていてわからないということですね。

例えば岩崎弥太郎なんかは土佐藩時代には上士の武士から人間扱いされていませんが、これに必死に耐えて……というか、とくに雪辱を果たそうとすることもなく、そのまま立身出世していますね。

一方で忠臣蔵の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)なんかは、まさに雪辱を果たそうとしてお家断絶になっている。   プライドと言えばプライドなんですが、これは「自分が小さい」というのと真逆ですよね。プーチンがそういうことを言っているというのは、すごい人間洞察力だな。

 

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