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コロナ禍の今、日本医療の特徴を考えてみる


この国の医療の形はどのように生まれたのか

権丈 善一 : 慶應義塾大学商学部教授

2021年03月12日

日本の医療をほかの国々と比べた特徴が、新型コロナウイルスの影響の下で注目を浴びている。

日本の医療提供体制については、目下、改革が進められている。ここ数年展開されていた提供体制の改革の青写真が描かれていた『社会保障制度改革国民会議』(2013年)の報告書には、「医療問題の日本的特徴」という項目があり、次のように書かれている。


 

*公的所有主体の欧米、私的所有主体の日本

日本の医療政策の難しさは、これが西欧や北欧のように国立や自治体立の病院等(公的所有)が中心であるのとは異なり、医師が医療法人を設立し、病院等を民間資本で経営するという形(私的所有)で整備されてきた歴史的経緯から生まれている。

公的セクターが相手であれば、政府が強制力をもって改革ができ、現に欧州のいくつかの国では医療ニーズの変化に伴う改革をそうして実現してきた。

医療提供体制について、実のところ日本ほど規制緩和された市場依存型の先進国はなく、日本の場合、国や自治体などの公立の医療施設は全体のわずか14%、病床で22%しかない。ゆえに他国のように病院などが公的所有であれば体系的にできることが、日本ではなかなかできなかったのである(『社会保障制度改革国民会議』22ページ)。

この種の話では、アメリカにおいても、公的病院、および公益的な民間非営利病院は総病院数のおよそ80%、全病床数の約85%を占めているということを言うと、けっこう驚かれる。

また、2001年の総合規制改革会議における、当時、厚生労働省大臣官房審議官(医政局・保険局担当)であった中村秀一氏の「株式会社の病院というのは、世界の医療提供体制の中でごく例外的、ヨーロッパではほとんどネグリジブルでありますし、多いと言われているアメリカでも、全体の25%ということで、われわれ自身、株式会社を入れるということが、それほど医療改革につながるふうには思っておりません」という言葉も歴史に残しておきたい言葉である。

官僚が忖度なく正論を言えた時代の記録でもある。

どうして日本は、医師が非営利の医療法人を設立し、病院などを民間資本で経営するという形(私的所有)で整備されてきたのか? そして、コロナ禍で注目されるようになったことだが、なぜ民間の病院は中小規模なのか? 

新型コロナの感染拡大の下、医療と経済、どちらを優先するかという問いかけがなされる中、こうした問いについて、いくつかの考える材料を準備できればと思う。ただし、文字数の制限もあるので、歴史的事実を淡々と論じるにとどめておこうと思う。

 

日本の医療は、江戸時代に築かれた自由開業医制を基盤としてきたと評されてきた。

明治に入り1887年の「医制」を機に漢方から西洋医学への転換が図られたが、それは従来医業に携わっていた人たちにも医師免許を付与して医師の総数を維持しながらという漸進的な方法で行われたために、自由開業医制の伝統は継承されていった。

明治以降に登場した日本の病院については、官立、特に公立の病院を軸に整備が進められていた。

だが、松方デフレ後の財政再建を背景とする1887年の勅令により、公立病院への地方税の投入が禁じられて以降、提供体制は民間中心になっていった。

しかし、第2次大戦直後の占領期から、病院を公的病院中心に再編成する動きも生まれた。

戦後のそのあたりの話からはじめよう。

 

*占領期にGHQが与えた影響

行政学者ワンデル博士を団長とする6名のアメリカ社会保障調査団が、ワンデル勧告と呼ばれる報告書を、日本政府に渡したのは、1948年7月である。

ワンデル勧告は、医療は公的責任において提供すべきものであり、病院については、国・公立や公的な機関を中心にすべきであって、「公的財源による病院建設」が勧告されていた。

一方、ワンデル勧告を見たアメリカ医師会は、歴代3期に及ぶ医師会会長ら自らが日本を訪れ、アメリカ医師会の指向する医師の「自主性と企業性」を確保することを主張し、医療の提供面において医師会が主導的な役割を果たすことを強調した報告書をGHQに提出している。

つまり、戦後日本には、GHQを通じた提供体制のあり方に対する提言が、2つあったことになる。

日本が戦後継承していったのは、ワンデル勧告の流れである。

ワンデル勧告を受けて1949年に設置された社会保障制度審議会は、同年末に、「社会保障制度確立のための覚え書」を出し、「医療組織については、総合的計画の下に公的医療施設の整備拡充を図るとともに、開業医の協力しうる体制を整え、また公衆衛生活動の強化を図る必要がある」と論じていた。

社会保障制度審議会は、1950年に「社会保障制度に関する勧告」を出す。そこには、「人口2000の診療圏において、公私の医療機関のない場合には、少なくとも一診療所を有するように配置することを目標とし、都道府県は、無医地域を解消するため、自らその設置運営をなすものとする」と提言している。今の言葉で言えば、都道府県による提供体制の整備が勧告されていたわけである。

こうした動きと並行して、社会保障制度審議会の1956年勧告では、「いやしくも公的資金により開設設置される病院については、(中略)医療機関網の計画的見地から、強力に、その地理的配置、規模、設備、機能などについての規制を行うべきである」「医学、医術の進歩に伴い、精密かつ複雑な治療設備や検査設備も必要とするのであるから、その施設は単に当該病院の専有物にせず、医療機関相互の利用を認め、その有機的な連携をはかるとともに、施設設備に対する重複な投資を避けさせしめることが望ましい」との方針が提示されていた。

1948年、GHQの指示で「医療法」が制定されていた。

この医療法は、20人以上の患者を入院させるための施設を病院として、病院と診療所を区分し、病院を尊重する立場に立っていた。GHQは、国・公立病院を中心に据えるワンデル勧告を考慮して、医療法で、国が自治体病院に国庫補助金を拠出できるようにした。

一方、1948年当時、日本の病院数の7割強が私的病院という戦前の状況とは大きく変わっていない現実があった。

私的病院には、免税や国庫補助金のような支援制度はなく、自治体一般会計からの繰り入れもない。そして納税の義務があった。

この頃の国家財政は、1949年2月にドッジによって勧告されたドッジ・ライン下の均衡予算であることから、政府には、公的病院を拡充するための資金の余裕はなかった。

そこで、医療法施行から2年後の1950年に法改正を行い、「医療法人制度」を導入している。

大著『日本病院史』の著者である福永肇氏は、「このアイデアは、個人の資金を民間医療機関に出資させようとする世界に類を見ない日本独自のユニークな制度」と論じている。

民間医療機関に法人格を付することにより、銀行からの資金調達が容易になるとともに、法人であるゆえに相続税問題から解放され、私人とは異なる税の軽減などもあり、法人に対する各種の公的補助金や税制上の優遇も享受できた。

これらの理由があり、医療法人は急速に普及していった。

 

*独立後、高度成長期の医療政策はどうなったか

1951年9月8日、GHQによる占領が終了する。

前年、1950年からの朝鮮特需で持ち直しはじめていた日本経済は、徐々に、欧米先進国の背中を見ながらキャッチアップ軌道に乗り始めていく。

高度経済成長期を迎えると、産業界の資金需要は活発となっていった。

銀行は高い金利で融資を行うことができる大企業を私的病院よりも優先していくのは当然で、そうした中、1960年に、民間の診療所・病院に対して公的資金を超低利・超長期の条件で貸し付けを行う医療金融公庫が設立される。

医療金融公庫の主な資金源は、郵便貯金、簡易保険、公的年金であり、これらが国の財政投融資を通じて投入された。

ただし、大蔵省資金運用部(当時)から医療金融公庫に回される資金にも制限があり、かつ、民間金融機関からは民業圧迫との声もあったため、病院は医療金融公庫から所要資金の全額を借り入れることはできない規定が設けられていた。

それゆえ、一部自己資金ないしは銀行借り入れが必要であり、それが病院による規模拡張への投資の制約条件となっていく。

こうした環境の中で、1962年に医療法改正により、公的病院病床規制が導入される。

目的は、都市部の病床過剰地域における公的病院の新設・増床を規制するというものであった。

ちなみに、民間病院への病床規制は、23年後の1985年の第1次医療法改正により導入されることになる。

 

戦後は、医療の需要面を社会化する公的医療保険が整備されていき、1970年代に入ると医療費の9割弱を税・社会保険料という公的資金が占めるようになるのであるが、一方で供給面では、自由開業医制を基礎に置く民間経営の私的提供体制という日本の医療保障制度ができあがっていった。

(出所)厚生労働省「医療費の概況」を基に筆者作成


*歴史的経緯が作っていった日本の医療のかたち

NHKの朝ドラで「梅ちゃん先生」が放映されていた2012年頃、このドラマの話をしながら、日本の医療の特徴の説明をしていた。第2次世界大戦末期の空襲により焦土となった東京の蒲田を物語の出発点とし、主人公が開業医として成長していく物語である。 

日本では、梅ちゃん先生のようにスタートした診療所が、1961年施行の国民皆保険による患者の増加の中で、少しスペースを広げて病床を持ち、その病床もしばらくすると20床を超えて病院となって、民間中小病院へと成長していった。

欧米では病院とは基本的に入院施設であって、外来部門を持たない病院も多いが、日本のほとんどの病院は大きな外来部門を持っている。日本の病院にとって、多くの標榜科を備えた外来部門は、入院患者への窓口として機能することになる。

 医療金融公庫があったとはいえ、「医療法」により非営利であることが規定されているために、民間病院は借り入れによる資金調達しか許されていなかった。そうした資金面からの制約によって、病院規模は中小規模でとどまってきた

先述の福永氏によれば、「今日、300床未満の病院が日本の病院数の8割強を占めている状況は、以上の戦後の病院発展におけるファイナンス面での歴史的背景の結果である」ということになる。

 

*取り組まれている医療提供体制の改革

株式を通じた資本の供給は、医療においてはできるだけ避けておきたいという国際的にも広範囲な合意がある。

ほかの先進諸国は、歴史的に、公的および慈善・宗教団体などの非営利の団体により医療提供体制が整備されてきており、医療が近代化した後も、それらが提供体制を支えてきた。 

しかし日本は、非営利という条件の下に民間主体の提供体制の整備が進められた。

医療法人制度、医療金融公庫という税の優遇や金利の優遇はあったが、資金は借り入れが主体となり、しかも低利借り入れの医療金融公庫には借り入れ上限もあって、大規模の病院に発展できたのはまれであった。

したがって、日本では、民間の中小病院が主体の提供体制ができあがっていった。

 公的医療保険と私的医療提供体制の組み合わせからなる日本では、長らく、医療改革が社会保障政策の中での最優先課題であった。

繰り返し政局の混乱を引き起こしていた年金よりもはるかに重要な課題と認識されていた「日本の医療は高齢社会向きでないという事実――『医療提供体制改革』を知っていますか?」<2018年4月21日>を参照)。

 そして今の日本では、地域医療構想と地域包括ケアは「車の両輪」であるとか、地域医療構想・医療従事者の働き方改革・医師偏在対策を加えて「三位一体改革」であると言われている。

 「車の両輪」、「三位一体改革」のいずれにも入る地域医療構想とは、高齢化・人口減少に伴う医療ニーズの質・量の変化や労働力人口の減少を見据えて、質の高い医療を効率的に提供できる体制を構築するために、医療機関の機能分化・連携を行っていく改革のことである。

地域包括ケアとは、自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供されるネットワークのことである。

 いわばこれらは、ニーズに見合った医療を提供し、医療の質を高めるための改革であり、この国が歴史的に形成してきた日本医療の特徴へのチャレンジであるともいえる。

三位一体改革の中の医師偏在対策にしても、この国の医療政策の歴史上、ずっと手付かずのままでいた医師養成のあり方に対する大きな試みである(「日本の大学の医学部教育は何が問題なのか?――医療介護の一体改革に立ちはだかる大きな壁」<2018年12月27日>を参照)

 この一連の取り組みには、地域の中での広範囲であり、かつ人口減少社会における患者減を見越した中・長期的な構想に基づいて既存の病院の選択と集中を図り、相互の連携を通じて、地域医療全体、高度急性期から在宅、さらには看取りまでのチーム医療、医療と介護を一体化した、多職種の連携による地域完結型の医療を目指そうとするビジョンがベースにある。

 そうしたビジョンは、戦後形成されてきた個々の病院内で完結していた「治す医療」から、地域全体で「治し支える医療」への転換であるとも言われている。

さらには、いくつもの中小の病院が競合していたのでは対応が難しい医療をそれぞれの地域で強化していく必要もある。

かつての患者数、病院数の拡張期とは異なり、競争よりも協調が謳われる時代になっているのである。

 今という時代は、歴史という経路に依存して形成されているものではある。

歴史過程における今という時代において、根気強く継続する改革の意思が求められるゆえんでもある。

だが今は、目の前の感染拡大の防止に集中しておくことが最優先されるべきなのであろう。

 

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