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この10年で「3つのこと」を諦めた日本の盲点

社会学者の開沼博が考える日本が変わらない訳

根本 直樹 : フリーライター

2021年03月11日

 10年前に東日本大震災・福島第一原発事故が発生した時、「歴史の大きな節目になるだろう」「3.11以降、日本はがらりと変わる」といった論調が数多く見られたが、本当に日本は変わったのだろうか。

福島県出身で3.11研究・実践の第一人者でもある社会学者で、先ごろ『日本の盲点』を上梓した開沼博氏が、いつ新たな危たな災害に見舞われてもおかしくない現状を踏まえつつ、この国の変化と「まったく変わっていない部分」を見つめる。



 * 忘れ去られた10年前の議論

――東日本大震災、福島第一原発事故により近代文明の行き詰まりが露呈したという論調が多く見られ、3.11以降、日本はがらりと変わると考えた人も少なくなかったようです。3.11前後での日本における最も大きな変化は何でしょうか。

まず変わらなかった部分を振り返ることから始めるべきでしょう。

何が変わらなかったのか。それはなぜか、と。

いま改めて10年前に視座を置きなおしてみれば、エネルギー政策を、防災・危機管理の体制を、根底から変えるべきだという声が世間ではかまびすしかった。あるいは、21世紀半ばをめがけて、少子高齢化・人口減少、地域での安心・安全なくらしの持続的な確保、環境負荷や地球温暖化の解決に取り組むべし、とも言われていた。

これらは「東日本大震災復興基本法」の頭に書いてあったことです。

どうでしょう。これらの具体的テーマについて、がらりと変わったでしょうか。

そもそも、当時にそんな議論があったこと自体を忘れている人が大多数でしょう。

その背景には、何らかの強固な「変わらなさ」が控えている。

まさにこの「日本の変わらなさ」について、私は『フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い』において触れていました。これは2012年9月刊行の本です。つまり、こうなることは、当初から見えていたんです。

この「変わらなさ」の正体は、「『変わるべきだ!変わるはずだ!』と唱えてさえいれば変わるに違いない」という幻想が、絶対的に「変わらない」強固さをもっているということ。これが、あの3.11直後の当時から明らかだったわけです。

事実を見る、現場を見る。

それを怠り、見たいものを見て、聞きたいことを聞き、一方的に断罪・糾弾できる敵・悲劇を見つけてはそこに殺到する。

個別具体的な議論はここではしませんが、そういった態度が蔓延(はびこ)る中で先に述べたような、10年前に解決すべきとされた課題がほとんど温存されていまに至っているわけです。

 

* 3.11前後で大きく「変わった」こと

――現実的に見て、3.11の前後で大きく変わったことが「防災」ではないかと思われますが、今後30年間の南海トラフ地震の発生確率が80%とも言われる中、地震に対する備えは以前よりも強化されたと言えるでしょうか。

耐震基準を満たす建物の割合は高まっていますが、防災についてなんらかの盲点が存在するでしょうか。

おっしゃるとおり。その点では、一定の変化と盲点の両方が存在します。

変化したのは、ハード面はもちろん、ソフト面、ガバナンスの観点ではいろいろありますね。

例えば、災害対応を見ても、災害対策基本法が細かくアップデートされてきて、それが断続的に発生する地震・台風等への対処を円滑にしている側面があるのは明らかです。

ですが、これはやはり実際にその現場で尽力する方たちの経験・知見があってこそ進んできた変化であり、日本社会の危機対応力が根底から変わったわけではない。

コロナ禍での混乱を見てどうでしょう。

南海トラフ巨大地震、首都直下地震が今後ほぼ確実に来ることへのリアリティをどれだけの人が抱えているか。

 

――多少は意識していても、具体的な議論・行動に落とし込まれてはいないでしょうね。

そうですね。ここではじめの問いに戻りましょう。

「3.11前後での日本における最も大きな変化」は何か。

これは、3.11から10年を機に刊行した『日本の盲点』に詳述しましたが、日本の社会意識がもつより広い意味での盲点が明確になったということでしょう。

具体的に言えば、「中道」「知識」「外部」、この3つを追求しコミットすることを諦めたということです。

「中道」とは、仏教用語としての意味に立ち戻れば、単に間をとったり中立を装ったりすることではなく、極端同士の対立構造自体から超越することを指します。

現在、さまざまな言説が極端に偏り、単純化され、対立を前提に設えられている状況がある。

背景には政治でのポピュリズムがあるのかもしれないし、メディアでのエコーチェンバー現象(自分と同じような意見ばかりを繰り返し見聞きすることで、主張や信念がより強固になる現象)があるのかもしれないし、そうでもしないと商品を売るにせよ、人を動員するにせよ、経済的にマスに訴求することが困難になっていることへの1つの対応策がそこにあるのかもしれない。いずれにせよ、極端で単純化された言説が「言説市場」の競争の中で勝ち残りやすい状況はますます加速しています。

そして、「知識」も必要とされなくなっているここでいう「知識」とは、断片的な情報を体系的に組み合わせ、またその獲得に向けた意思と経験への意思が不可欠なものを指します。

例えば、何かのプロ・職人が熟練の過程で身につけるもののようなものですね。

そういった意味での「知識」を前提とした言説は成立し得なくなる。

そうなれば、すでに政治的・経済的資源を得ている人々が持っているような"あらかじめ獲得された立場"が複雑な物事を決める主たる要因となっていくでしょう。

 

* 知識がもたらす社会のダイナミズムが衰退

でも逆説的に「知識っぽい情報」は増えているという実感がある人もいるでしょう。

とにかくわかりやすく解説することに心血を注ぐテレビや、YouTuberのテロップカルチャー的なものだったり、逆にひねくれたペダンチックなものの見方がバズったりして、なんか新しいこと言っている感をそこに求める層がいることとか。

一方には、「わかりやすさ・理解しやすさ」をひたすら拡大しようとする無限運動がある。

他方に「わかりにくさ・理解しにくさを楽しもう」というニッチで「高尚な知的趣味」が存在する構図がある。

両者に共通するのは、「知識」が必要ない、ということです。

「わかりやすさ・理解しやすさ」というのは、ある情報の体系のパッケージ部分だけを手短に理解する、あるいは、理解したつもりになれることを志向する

それに比べて「わかりにくさ・理解しにくさを楽しもう」という態度は、一見知的なようでいて、「知識」の有無を放棄することに接続してしまっている。

両者とも「知識」はあるべきだし、尊重もされるべきという規範を根本から破壊していっています。

これはタコが自分の足を食っているようなもので、知識がもたらす社会のダイナミズムを減衰させていくことに接続していくでしょう。

「中道」も「知識」も不要だし、それらが当然あるべきだという感覚が失われれば、そこにはもう「外部」への想像力が一切存在しなくなります。つまり、「事実を見る、現場を見る。それを怠り、見たいものを見て、聞きたいことを聞き、一方的に断罪・糾弾できる敵・悲劇を見つけてはそこに殺到する」ような、言葉のゲームが反復されるようになります。

そこには「何かやってやったぞ感」と徒労だけが残り会の変化は何も起きずに時間が経過していくことになる。

 

* デマやニセ科学に対する修正力は高まったが…

――福島県産の農産物、海産物への風評被害や、放射能に関するさまざまなデマが問題になりました。

        3.11を経て、日本人は「誤った情報」「非科学的な情報」に対する耐性ができたといえるでしょうか。それとも、情報の真偽を見抜くことがさらに困難になっているでしょうか。

個別には耐性もできてきたでしょう。

例えば、新型コロナのワクチンについてのニセ科学・陰謀論に基づく情報、実際に感染者を増やし人命に関わりかねない情報をSNSはもちろん、マスメディアも流布する動きは相変わらずですが、自然発生的にそれをただす動きも、早い段階で出るようになってきている。

これは、3.11を見てきた人間としては「3.11の経験が、まさにワクチンのように作用して耐性をつくり、少しは生かされたな」と思うところです。ですが、大きな流れとしては、情報と私たちの関係の中で起こる問題は、より混乱していくでしょう。 

もっとも、これは「日本人は」というところにとどまらず、グローバルでユニバーサルな動きと接続しています。

つまり、日本だけではなく国際社会の問題として、3.11からだいぶ時間がたってから「ポスト・トゥルース」「フェイク・ニュース」が話題になり、アメリカ大統領選で明らかになったように陰謀論・ニセ科学が跋扈する状況になった。

これら、全部3.11のときから、日本社会はすでに経験しはじめていたわけですから、日本は先んじてこの普遍的な問題を経験していたとも付言する必要があります。

 

――3.11を経て、日本は「変わらなさ」が維持される構造に変わった、ということですね。

        日本人の価値観や、意思決定のプロセスに何か変化は見られますか。東日本大震災、福島第一原発事故は、日本人にどのような「教訓」を与え、その教訓を日本人はどのように生かしているでしょうか。

「最悪の事態に対する備えのなさ」があぶり出された。

これが3.11から得た最も大きな教訓でしょう。

同時に、新型コロナ禍にも、それは相当程度当てはまる、といってもいいでしょう。

最悪の事態を想定しないから、対応・意思決定が場当たり的になるし、問題意識の共有もばらつくし、価値観も極端に他罰的になる。他罰的でもいいんですが、それが自省ともセットでないと、やはり「外部」はなくなります。

「自分たちの議論だけが絶対的に正しい」という罠から逃れられなくなる。

なぜそうなるのか。

これは3.11の事故調などでも分析されてきたことですが、「最悪の事態を想定するとこうなります」と誰かが言ったら、周りから「お前は、その最悪の事態が起こると主張するのか」という反発が必ず返ってくるからです。

これはおかしな話ですが、「こうである」とファクトを詳(つまび)らかにしたら、「こうなるにちがいない」とオピニオンを言っているものとして扱われ潰される。

もちろん、科学的根拠がなかったり、政治・経済的意図があったりで、危機に便乗してありえない「最悪の事態」を流布しようという輩が出てくることもよくあるわけですが、そういうものの存在が助長する部分も含めて、「最悪の事態」への備えがなされない。この点への問題意識がなかなか醸成されぬままに来てしまった10年間だったとは言えるでしょう。

 

日本がはまり込んでいる「構造」

――新著『日本の盲点』の中で、「危機は脆弱な部分に破滅をもたらし、脆弱でない部分を焼け太りさせる」と述べていらっしゃいますが、3.11、あるいは新型コロナ禍についてもそのような現象がみえるでしょうか。

       はい。これについては、多くの人がそれぞれ具体的に思いつくことがあるでしょう。

      そして、何が焼け太りしていくのか、何が破滅していくのか、歴史的に、領域横断的に、より広い視点で捉え直していく必要があると考えています。

メディアと社会的現実のゆがみ、国際秩序の変容、多様化=分断の高度化……。

『日本の盲点』では、現代社会の中で進むさまざまな現象について、具体的な事例をあげながら理論的考察を深めましたが、そこに共通しているのは、私たちが、それを見なくなっている、もっと正確にいうと「あってはならぬものを見て見ぬ振りをして過ごしていこうとする」構造にはまり込んでいる、そこに盲点があるということです。

目の前の問題を棚上げせず、直視して向き合えるのか。3.11から10年のその後が問われるのはこれからです。

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