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渋沢栄一は何した人?偉業が目立たない深い訳

同時期に活躍した岩崎弥太郎とは対照的

井上 潤 : 渋沢史料館 館長

2021年02月27日

 2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公である渋沢栄一は、幕末に武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の富農の長男として生まれました。

攘夷を志す青年期を過ごし、幕臣、官僚を経て実業界に身を投じると、約500の企業の設立・育成に関わり、日本近代経済の礎を築きました。

渋沢栄一の人物像について、渋沢史料館館長を務め、「青天を衝け」の時代考証を担当する井上潤氏に話を聞きました。



*自分の名前を押し出すことに執着しなかった

――渋沢栄一は、約500の企業の設立・育成に関与し、600もの社会事業に携わったという圧倒的な事績の持ち主です。その一方で、同じく幕末から維新の時代に生きた坂本龍馬や西郷隆盛に比べると知名度的には控え目な印象があります。それはなぜなのでしょうか。

確かにそれが実態かもしれませんね。これには渋沢らしさを感じられるいくつかの理由があると思います。

まず、自分の名前を押し出すことに執心しなかったという点です。それから、成し遂げた事績の数が、あまりにも多すぎた。

なにせ関係した企業の数だけで500ですから。後世の人にとったら、焦点が定まらない存在になっているんでしょうね。

「渋沢栄一を一言で表してください」なんてよく言われるんですけど、「一言では語れない人」と答えるしかない。

ですから、「これ!」という一点がなく、伝わりにくいというのがあるのでしょう。

教科書的には「日本で最初に銀行を設立した人」と言われたりしますが、それだけには収まらないのが渋沢の特徴です。

 

――スケールがケタ外れだったのですね。ほかにも理由はありますか。

幕末の有名な偉人との違いは、渋沢が長寿だったということでしょうか。

たとえば、若くして亡くなった坂本龍馬や吉田松陰のような人たちにまつわる出来事は、実に短期間に凝縮されています。

反対に、長く生きた伊藤博文や井上馨などの明治の元勲たちの場合、どうしても焦点が絞りにくい。

渋沢にも同じことが言えるのでしょう。

それからもっと重要なのは、大きな会社をたくさん作ったのに、自らの財閥を形成しなかったという点です。

彼が設立・育成した企業は今も多く存在しますが、「渋沢」という名前を掲げているところはほとんどなく、子孫が経営を引き継いでいるところもありません。

これもあまり目立たない理由の1つで、渋沢の人柄をよく表していると言ってもいいでしょう。

渋沢が次々と会社を設立したのは、世の中を豊かにするためでした。

自分の利益を追求し、自らの家を栄えさせようという意識はなかったのです。

 

――同時期に活躍した実業家とは一線を画していたのですね。

そうです。例えば、三菱財閥の創業者岩崎弥太郎とはよく比較されるんですよ。

次のようなエピソードもあります。

明治11年、岩崎は向島にあった柏屋という船宿に渋沢を呼び出し、そこで2人は徹底的に持論をぶつけ合ったそうです。

当時、岩崎は日本の海運業を独占したいと考えていて、渋沢を自分たちの仲間に加えようとしていました。

岩崎の考え方は、そのころようやく日本社会に浸透し始めた資本主義をまさに象徴するものだった。

ところが、渋沢自身は合本法の考え方を持っていましたから、岩崎とはまったく考え方が異なります。

三菱財閥の拡大を第一に考え、大きな利益を得ようとする岩崎。

経済発展を望む気持ちは共有しながらも、事業を世の中に定着させて社会全体を豊かにしようと考える渋沢。

両者が手を結べるわけもなく、はっきりと袂を分かつことになりました。

 

*考え方が柔軟なのも渋沢の持ち味

――両者共に日本の近代経済の発展に寄与したと思いますが、アプローチの仕方はまったく違ったのですね。

渋沢自身がのちに「岩崎とは個人的には昵懇の仲だった」と語っていますが、事業経営にあたっての考え方はまったく一線を画していたのです。

実際、過当競争のせいで疲弊を極めた海運業を復興するために、渋沢自身も設立に関与した三井系国策会社の共同運輸会社と郵便汽船三菱会社を合併させて、日本郵船を誕生させていますからね。

要は何が大切なのかをしっかりと見極められる人だったのでしょう。

海運業を発展させようと思えば、個人的な考え方の違いなどは脇に追いやれた人でした。

資本が合わされば、事業自体は拡張し、日本の海運業の発展につながるのはわかっていましたからね。

であれば、必要に応じて合併すべきだと判断し、それを実行する。

このように、考え方が柔軟だったのも渋沢の持ち味でしょうね。

 

――『渋沢栄一自伝雨夜譚・青淵回顧録(抄)』を読むと、バランス感覚のいい人物という印象を受けますが、実際はどうだったのでしょうか。

そうだったと思います。激しい生き方をした人でもありましたが、絶えず全体を見渡しながら総合的に判断する人でした。

さらに付け加えると、情報をものすごく重視する人だったと言えるでしょう。

青年期は尊王攘夷に傾倒し、横浜の外国人居留地を焼き討ちするという考えに染まっていった。

そんな激しい考え方に浸っていたときでさえも、開港説の文献に目を通していましたから。

外から見ると、右往左往しているように映るかもしれませんが、渋沢の行動にはつねに貫かれているものがあります。

そもそも攘夷に傾倒し、官尊民卑の打破を標榜したのは、「人々の生活を守るために世の中を変えたい」という思いがあったからです。

しかし、攘夷では世の中を変えられないとわかると、すっぱりと攘夷論から離れていく。

そして、体制の中に残るという道を選び、一橋家に仕官していきました。

大きな転換点ですが、根底にあったのはやはり「今の世の中を変える」という強い意志です。

武士に敵対心を持ちながらも、目的を成し遂げるにはあえて武士にならねばと考えたのです。

ただし、一橋家に仕官してからも、官尊民卑を打破し、世の中を変えるという気持ちを変えませんでした。

武士になったのは、何も上の身分に立ちたいと思ったからではありません。

世の中を改めるには、社会を動かすところに身を置かなくては何もできないという事実に気が付いたからでした。

渋沢は徹底した現実主義者でもあったのです。

変わり身があまりにも激しいので、確かに節操がないように映ってもおかしくはない。

でも実際は、その時々の状況を総合的に見渡して、「今はこの道を行くべき」と自分なりに判断しています。

そのときの時代の雰囲気に流されて、あっちに行ったり、こっちに行ったりしていたわけではありませんでした。

 

*深谷の人たちは貨幣に慣れ親しんでいた

――そんな渋沢の卓越したバランス感覚、時代を捉える正確な判断力はどうして身に付いたのでしょうか。

        それには彼の育った深谷という土地や実家が農家だったということが影響しているのでしょうか。

武蔵国北部の農家の長男という言葉だけを聞くと、とても保守的で、古い考え方に凝り固まったイメージを強く持ってしまうかもしれません。ただし、そうした考えを一度脇に置き、出身地である深谷という地域を地図上で見ていくと、少々違ったイメージを得られると思います。

渋沢が生まれ育った血洗島(現深谷市血洗島)の北には利根川が流れていて、さらにすぐ南には中山道が通っています。

江戸時代、あれほどの交通の要衝は多くないと言っていい。

物資輸送の中継地点である河岸、宿場もあり、地域経済の中心でもありました。

ただし、農村地帯として見ると、残念ながら農作だけでは生業が立たないような土地柄でした。

米が取れず、そのため本年貢は米という時代にあって、岡部藩の藩主は早くから金納の仕組みを取り入れます。

こうした事情があったので、あの地域の人たちは貨幣というものに慣れ親しんでいた。

米が取れないので、そうせざるをえなかったんですね。

 

――その環境が渋沢に大きな影響を与えた?

そうですね。どの農家も農作だけでは生業が立たず、諸職業に従事していました。

その結果、商品経済がどんどん発展していきます。

その1つが、渋沢の実家も力を入れていた藍玉の商売でした。

しかも、価格が暴騰する時期にちょうど重なってくるわけですよね。

幕末から明治の4、5年にかけて、藍玉の価格は4、5倍ほど高騰します。その波に乗れた家は次々と富農になっていきました。

渋沢の場合、父親が藍玉の商売を本格的に始めていくのを幼いころから身近で見ていて、それがうまく自分の中に浸透していった。学問として経済を教わったのではなく、家業の手伝いをする中で身に付けていったのです。

要は、人、モノ、金が絶えず行き交うような環境で育ち、かなり小さな規模だったとしても、貨幣経済が確立された環境で育ったという生い立ちが大きかった。

そういう意味では、深谷という土地は、これからの時代を築くような人が生まれ育つような先進性を帯びた土地柄だったことは間違いないですね。

 

*脆弱な環境が多角的な経営の才能を育んだ

豪農と呼ばれる大地主が血洗島周辺にいなかったのも大きかったと思います。

当時の関東では、10町歩以上の土地を持つ家を「豪農」と呼ぶようなところがあります。

ところが、血洗島で最も大きかった渋沢の親族の「東の家」でも、せいぜい1桁の規模の町歩数しか所有していなかった。

すると、どういうことが起きるか。

どの家でも食べていくために金融もやり、農業もやり、養蚕もやり、藍玉の製造や買い付けも行わなくてはなりません。

豪農のような商業活動をしながら、土地の集積という意味ではどの家もとても脆弱だったのです。

しかしこの環境こそが、のちの渋沢の多角的な経営の才能を育んでいったと思います。

 

――渋沢は将軍慶喜の名代として訪欧使節団を率いた徳川昭武に伴い、フランスに行きます。そこでも影響を受けたのでしょうか。

渋沢が近代に目覚めたのは、訪欧がきっかけといって間違いないでしょうね。

ただし、先ほど述べた血洗島周辺で繰り広げられていた貨幣経済という原風景があったからこそ、ヨーロッパで見聞したものをしっかりと吸収できたのだと思います。

遠くヨーロッパの地で新たな制度を目の当たりにしたとき、まったくそれがわからずに理解不能に陥るのではなく、自らの経験に当てはめて納得できたのでしょう。当然、規模としては雲泥の差があったでしょうけど。

第二帝政期のフランスというのは、ものすごく産業振興に力を入れて、流通機能、鉄道、道路網が発展し、これから銀行が建ち並んでいくという勢いを感じさせるところでした。

そうした中で、人、モノ、金が行き交う基盤が確立されていた。

それを見た渋沢は、「あれ、どっかで見たことあるぞ」と思ったのではないでしょうか。

現地では、軍事施設を案内し、近代的軍隊について指導してくれる軍人たちもいました。

日本では武士階級が政治と軍事を司っていたのですから、それに共鳴してもおかしくはなかった。

しかし渋沢は違いました。国を強くするには、政治や軍事よりも基盤となる経済を確立させなくてはならないと思ったのです。

軍人たちの力量が国を繁栄させるとは考えられなかったのでしょう。

ヨーロッパでの経験は、「官尊民卑を打ち破らなければならない」という渋沢の思いをさらに強めていきます。

 

――大河ドラマの放送に合わせて、自伝や『論語と算盤』『渋沢百訓』など渋沢の著作を楽しむためのおすすめの方法はありますか。

書籍から知れるのは、渋沢自身が語る人生ですよね。

一方ドラマは、第三者が脚本を書き、俳優さんがそれを演じていきます。

本とドラマの両方をオーバーラップさせて渋沢をとらえていくと立体的な深みが出てきて、より具体的に渋沢の人生を理解できるのではないでしょうか。ただ、次のようなエピソードも残っているので紹介しておきます。

 

晩年期、他人の手による伝記が複数出始めるのですが、人からすすめられて渋沢はそれらの中に浮薄な文章があるのを見つけると、正誤を正すことに着手しました。

 

たとえば、一橋家仕官時代に土方歳三らの新撰組隊士を従えて、国事犯の嫌疑をかけられた薩摩藩士を捕らえに行った場面について間違いを指摘しています。

文中では、あたかも渋沢自身が武道の技を繰り出して相手を捕縛し、土方に突き出したような武勇伝風の描写がなされていたのです。

これを読んだ渋沢は、「ここまでのものじゃなかったよ」と言い、自ら訂正を加えています。実際のところは、訪れた先の客間で用件の申し渡しをし、相手はそれを聞き入れたので門口で待っていた土方に身柄を明け渡しただけだったようでした。

自身のことが誤って伝わっていくのが嫌だったのでしょう。


渋沢栄一という人物を知るにあたり、本を先に読むほうがいいのか、ドラマを見てからにすればいいのか……。

難しいところですね。順番はどうあれ、本とドラマの両面から渋沢が世の中に送り出したいと願ったメッセージが伝わればいいなとは思っています。

(取材・構成 野口孝行)

 

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