· 

実は失敗も多い渋沢栄一、500社作れた真の理由


銀行設立を皮切りに、さまざまな事業を立ち上げた渋沢栄一(左から2番目)(写真:Alamy/アフロ)

混迷の時代に必要な「理想を求めて突破する力」

真山 知幸 : 著述家

2021年02月28日

 

 

大蔵省を辞し、実業家としての道を選んだ渋沢栄一。日本初となる第一国立銀行を設立すると、合本組織の銀行が全国に次々と誕生し、地方の活性化にもつながった。短期連載第8回にして最終回となる今回は、渋沢栄一の新事業への挑戦をお届けする。


<これまでのあらすじ>

父の手伝いで14歳のときに始めた藍玉の買い付けでは、製造者をランク付けし、競争心をあおる試みを取り入れるなど、早くから商才を発揮していた渋沢(第1回)。

多感な青年期に従兄弟の尾高惇忠やその弟・長七郎、渋沢喜作(成一郎)と出会い、攘夷思想に染まっていく(第2回)。

「国を救うには外国を打ち払うしかない」と、高崎城の襲撃と横浜の焼き討ちを計画するが、頓挫(第3回)した。

その後は一橋家に仕官し、財政再建を進めた(第4回)。パリ万博に随行する機会を得て多くを学ぶと(第5回)、帰国後は大蔵省に入省。現場に煙たがられながらも、改革を推進するが、各省からの度重なる予算要求を受け、国家の財政状況に危機感を覚える(第6回)。実業家に転身した渋沢は、日本で初めて銀行を開業し、事業に対する日本人の意識改革も図った(第7回)。

 

そんなある日、渋沢の前に、岩崎弥太郎が現れて……。

 

*岩崎弥太郎から矢のような催促

明治6(1873)年に第一国立銀行を設立してからというもの、渋沢栄一のもとには、さまざまな事業に関する相談が寄せられた。

官僚がいばりくさる時代に終止符を打ち、商人の地位を高める――。

それこそが己の生涯に渋沢が課した使命であり、それには、公益を追求するために人材と資本を集めて、事業を推進させていかなければならない。

「合本主義」というと難しく聞こえるが、渋沢がやろうとしたのは、そんな会社組織を日本全土に作り、経済を活性化させることである。いろんな方面からの相談に、喜んで協力したことは言うまでもない。渋沢は日々忙殺されることとなった。

そんな中、郵便汽船三菱会社社長の岩崎弥太郎から、こんな誘いが舞い込んできた。

「向島の柏屋に舟遊びの用意をしてお待ち申していますから、ぜひおいでください」

どうにも気が進まなかったので、うやむやにしていたが、岩崎から矢のような催促が飛んでくる。

渋沢は重い腰を上げて出向いていくことにした。

料亭に到着すると、15人ばかりの芸者が用意されている。

一座は屋形船で川に出ると、漁師に網で獲られた魚が船内で跳ね回る。

芸者たちが嬌声を上げるなか、弥太郎はおもむろにこう切り出した。

「これからの事業はどうやって経営していくのがよいだろうか」

このとき渋沢は38歳。岩崎は5歳年上で、海運業の成功により、すでに巨万の富を築いている。

そんな成功者が若輩者に心からアドバイスを求めているとは思えない。

だが、どんな意図があるにせよ、渋沢の事業に対する考えは明確である。

即座に合本主義について熱弁するも、岩崎はそれに真っ向から反対した。

「あなたが語る合本主義などは、船頭多くして船山に登る、の類だ。事業は経営手腕がある者が行わない限り、うまくはいかない」

リアリストという点で両者は共通していたが、岩崎からすれば、渋沢の高邁な理想は会社経営にはマイナスだと考えていた。

むろん、渋沢とて経営者には、それにふさわしい資質が必要なことに異論はない。

さらにいえば、多様な人材と意見交換しながら、1つに結束させて事業を推進していくには困難が伴うことも、身に染みていた。

岩崎から呼び出されたのは、明治11(1878)年8月。

渋沢は、すでに銀行以外の会社設立にも携わっており、幾多の壁にぶつかっていた。そのうちの1つが製紙業である。

 

*資本金集めに大苦戦

大蔵省を辞めた渋沢が、手始めに日本初となる銀行を設立したことはすでに書いた。

それと同時期に立ち上げたのが、洋紙を製造する抄紙会社(現在の王子製紙日本製紙)である。

なぜ製紙事業なのか。その理由について、渋沢はこんなふうに語った。

「明治維新の大事業が成就した今、進むべき方向は文化、文明の発展であり、学問や芸術が振興するだろう。学問や芸術の発展のためには、廉価な洋紙を供給し、図書や新聞、雑誌などの出版を盛んにすることも重要である」

時代のニーズをとらえる、この大局観こそが渋沢の魅力であり、実業家としての武器である。

渋沢は銀行と同じく製紙業に注目。大蔵省にまだいる頃から、民間の有力者に設立を促していたほどだった。

だが、いざ自分で立ち上げようとすると、高い理想はともかくとして、資本金集めがまったくうまくいかない。

渋沢は完全に手詰まりになってしまう。出資をこれほど拒まれるのは、株式会社というものが、まだよく理解されていないのも原因の1つだが、政府が主導した為替会社商社などが次々と失敗したことも大きく影響していた

「政府も資本を投じ、株主も出資して皆損をしたから、会社は恐ろしいものと嫌われた」

そんな恨み言をのちに書いた渋沢。

仕方がなく、自身が設立した第一国立銀行から借り入れをしたり、自分で株式を購入して第三者に売却したりして、なんとか資金を調達したのだった。

危ない橋を渡ったのは、「国のためになる」という点で、事業の方向性は間違えていないと確信があったからこそである。

事業をスタートさせられれば何とかなる……はずだった。

しかし、どうにか資金の都合をつけて、製紙事業をスタートさせても、思うようには進まない。

渋沢が欧米から雇い入れた技術者の質が低く、まともな紙がいっこうにできあがってこないのである。

すでに最新式の機械もイギリスから購入してしまっている。

ここで失敗したら、官だろうが民だろうが「会社はうまくいかない」ということになる。

何としてでも事業を軌道に乗せなければならない。

渋沢は、技術者の尻を叩いて改善させたが、まともな紙が出てきたのは、機械を導入して数カ月経ってからのことだった。

理想どおりにはいかない事業の難しさに直面し、渋沢も生きた心地がしなかったに違いない。

 

さて、話を屋形船に戻そう。岩崎から「経営は才あるものが行うべき」と言われた渋沢。

すでに製紙事業での苦労も経験している。これからも、さまざまな未知の事業に挑戦すれば、どの道のりも険しいだろう。

 

*「経営者が利益を独占するのは間違い」

それでもなお、渋沢は合本主義こそが、日本の社会と経済をよりよい方向にすると信じて疑わなかった。

渋沢は岩崎にこう答えた。

「才腕ある人物に経営を委託するのは当然だが、その経営者がいつまでも事業や利益を独占するのは間違っている」

当時の海運業は、岩崎の郵便汽船三菱会社によって、ほぼ独占されていた。

そのことを目の前で指摘したが、岩崎は「それは理想論に過ぎない」と喝破して、渋沢に提案をした。

「君と僕が固く手を握り合って事業を経営すれば、日本の実業界を思うとおりに動かすことができる。これから2人で大いにやろうではないか」

渋沢の能力を高く買っていたのだろう。ビジネスパートナーとして、2人で日本経済を牽引することを持ち掛けたのだ。

だが渋沢の目的は、あくまでも会社の設立によって、民間経済界の全体を潤わせることである。

常々こんなふうにも語っていた。

「自分が事業のために奔走するのは、ただ国家の利益を図るためであり、成立の見込みある事業ならばいくつでも作ることに尽力し、国家経済の発展を助ける」

岩崎と口論の末、渋沢は席を立つ。交渉は決裂である。

社長独裁の会社が政府の助成を受け、1つの事業を意のままにしている。そんな状態が、渋沢には我慢ならなかった。

それでは、近代経営の体を成すことはできない。渋沢はこうも言っている。

「他人を押し倒してひとり利益を獲得するのと、他人をも利して、ともにその利益を獲得する人。どちらが優れているかは、明らかである」

渋沢は岩崎の独占状態を打破するため、海運業へと乗り出していく。

井上馨らに働きかけ、三井を中心に共同運輸を設立。岩崎が率いる郵便汽船三菱会社との熾烈な戦いは、実に2年半にわたって勃発した。結果として、両者痛み分けで合併の道へ日本郵船として生まれ変わることになる。

渋沢と岩崎はまさに「犬猿の仲」だった。だが、その一方で、財界人として協力し合う場面も見られた。

互いに優れた国際感覚を持つ者同志である。方針は違っても認め合っていたのだろう。

岩崎の提案に乗らず、渋沢はそれからも「国のためになる事業」であれば粉骨砕身して、合本会社の立ち上げに協力している。とりわけ苦労が多かったのが、東京人造肥料株式会社(現在の日産化学)の立ち上げである。

この人造肥料の事業を興したときは、渋沢以外の関係者が、なんと全員逃げ出してしまったのだ。

そもそもは農商務省の技師である高峰讓吉から提案されたのが、きっかけだった。

日本で使用されている人糞や堆肥では、肥料として効き目は少ない。人造肥料にこそ農業の未来があると熱心に説かれて、農村生まれの渋沢の心は強く揺さぶられた。

「時期尚早かもしれないが、人造肥料の会社を起こして、その事業の発展を図るのは国家のために有益ある事業であるだけではなくて、営利事業としても有望だろう」

 

*夢の事業の始まりだったはずが…

国家のためにもなり、また営利も出る。これこそが、自分が生きる道だと渋沢は思ったのだろう。

益田孝(三井物産の初代社長)や大倉喜八郎(大倉財閥の創設者)、浅野総一郎(浅野財閥の創設者)、安田善次郎(安田財閥の創設者)などに声をかけて、東京人造肥料株式会社を設立。

高峰讓吉にいたっては、農商務省を辞めて、技術長に就いている。まさに夢の事業の始まりだ。

関係者は誰もがそう思ったに違いない。

しかし、結果的に人造肥料はまったく売れなかった。

農家にしてみれば、これまでずっと無料の肥料を使ってきたため、わざわざコストをかけるという発想にならなかったのだ。

それでも効能をアピールして、少しずつ注文がとれ始めたが、今度は「効かない」とクレームが殺到。

渋沢は人造肥料を藍の産地である故郷にも送ったところ、原材料に間違いがあり、成果が上がらなかったのである。

反省を生かして肥料の質こそ上がったものの、今度は技術長の高峰讓吉が会社を辞めてアメリカ留学すると言い出したうえに、工場が大火事に遭って全焼してしまう。泣き面に蜂とはこのことである。

人造肥料の事業において、積み上げてきたものはすべて失ってしまった。

万事休す。共同出資者からは「会社を潰そう」という声が次々に上がった。

これ以上、赤字を重ねるわけにもいかない。もはや撤退しか道はない。

そう思えたが、1人だけ逃げなかった男がいる。渋沢栄一である。

「国家のためになる事業で、農村の振興にも必要だ。将来は必ず有望な事業になると信じて計画したのだ。どんな厄災に遭っても、必ずこの事業を成就させなければならぬ」

渋沢にとっては「国家のためになる」と言い切れる事業を、うまくいかないからとやめるという選択肢はなかった。

「借金してでも必ず成し遂げる」

渋沢は、1人で経営改革を行う。株主総会に働きかけて資本金を半減して、創業から続いていた赤字や火事による損金を補填した。さらに、肥料の原材料として多く使う硫酸を、他社から購入するのをやめ、自身の工場で製造することでコストダウンを図った。少しでも多く利益が出るかたちを作り上げたのである。

そうして赤字体質から少しずつ抜け出そうとしているうちに、時代の追い風を受ける。

明治27(1894)年ごろから、人造肥料の需要が高まってきたのだ。その結果、創業6年目あたりから業績は好転し始める。

その後も順調に売り上げを伸ばすと、資本金を増資して工場も拡張。事業を軌道に乗せることに成功した。

大失敗して1人きりになり、渋沢はこれまでの人生の苦境を振り返ったのではないだろうか。そして、腹をくくったのである。これまでどんな苦境だって、自らの奮闘で乗り越えてきたのだから、と。

「自分からこうしたい、ああしたいと奮励さえすれば、大概はその意のごとくになるものである」

 

*時代の大転換期を駆け抜けた渋沢栄一

短期連載「渋沢栄一とは何者か」は本稿で最終回となる。

渋沢の人生からほとばしる情熱に触発されたのか、思いのほか筆が進み、第8回まで続けることができた。

もちろん、本連載で紹介した、渋沢の業績は全体のほんの一部である。

また、渋沢は60歳ごろから国際関係の仕事に多く携わった。

国際人としての活動も含めると、まだとりあげるべき逸話は数多くある。

しかし、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢が、どんな紆余曲折を経て実業家となったのか。

幼少期や青年期に触れた言葉や思想が、のちの渋沢にどんな影響を与えたのか。

そして、明治維新という時代の大転換期で、渋沢がどんな考えを持って、500社を超える会社設立に携わったか。

その一端は本連載で伝えられたように思う。

日本経済ひいては日本社会全体に閉塞感が漂って久しい。

こんな先行きがみえない混迷の時代だからこそ、渋沢栄一の突破力に私たちは勇気づけられるのだろう。

そして、どれだけの困難に直面しても、決して諦めてはいけない。

未来への一歩を踏み出す限りは、そこに必ず希望はある。渋沢はそう教えてくれている。

 

【参考文献】

渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)

渋沢栄一『青淵論叢道徳経済合一説』(講談社学術文庫)

幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫)

木村昌人『渋沢栄一――日本のインフラを創った民間経済の巨人』(ちくま新書)

橘木俊詔『渋沢栄一』(平凡社新書)

鹿島茂『渋沢栄一(上・下)』(文春文庫)

渋澤健『渋沢栄一100の訓言』(日経ビジネス人文庫)

岩井善弘、齊藤聡『先人たちに学ぶマネジメント』(ミネルヴァ書房)

 

Copyright©Toyo Keizai Inc.All Rights Reserved.


メール・BLOG の転送厳禁です!!  よろしくお願いします。