経済に詳しくない人もわかる技術が変えた歴史
世界相場に安定と繁栄をもたらしたのは何か
ホン・チュヌク : 経済学者
2021年03月02日
6世紀にスペインが南米で見つけた金のほとんどは、スペインではなく中国に流入しました。時代をくだって1960年代、ベトナム戦争に苦戦したアメリカが考えた軍事物資の輸送手段は、「メイド・イン・ジャパン」ブームのきっかけにもなりました。
どうしてこのようなことが起こったのでしょうか? 歴史を「経済」の視点から紐解く『そのとき、「お金」で歴史が動いた』の著者ホン・チュヌク氏は、これらの出来事に時代ごとの各地域固有の事情と技術発展が大きく影響していると分析します。
*銀不足の中国・南米で銀鉱を発見したスペイン
歴史の勉強をしていると、「運命」というものを感じることがあります。
16世紀の中国とスペインの出会いがまさにそうと言えましょう。
一条鞭法という歴史的改革を断行した中国が「銀貨不足」の状態にあったとき、スペインがメキシコとペルーで豊かな銀鉱を発見したのです。
メキシコを出発したスペインの大船隊がフィリピンを経て中国に到達した後、陶磁器や絹の代金を銀貨で支払ったおかげで、中国の貴金属不足の問題は解決しました。
しかし、ここで、とある疑問が生じます。ヨーロッパで中国製品の人気が高かったのは事実ですが、アメリカ大陸で採掘された銀の大部分が中国に流入するほどの需要があったとは思えません。
それにもかかわらず、銀が中国に大量流入したのにはどのような理由があったのでしょうか?
ここで注目すべきは、「金と銀の交換比率」です。
他の地域と比べて、中国では銀の価値が高かったのです。
16世紀の金と銀の交換比率を見ると、ヨーロッパではその比率がおよそ1対12だったのに対し、中国では約1対6と、銀の価値が2倍ほど高い状況でした。そのため、ヨーロッパ人は銀を中国に持ち運ぶだけでも大きな利潤を手にすることができたのです。
このような現象が起こった理由は2つあります。
1つはアメリカ大陸のサカテカスとポトシで史上最大規模の銀鉱が発見されたこと、もう1つは東アジアでは金の産出が相対的に多かったことです。
最も代表的な例は日本の佐渡の金山で、記録によればその産出量は累計78トンに達したといいます。
もちろん、銀がヨーロッパから中国へと大移動するにつれて金と銀の交換比率の落差は徐々に縮まっていきましたが、移動には時間を要し、費用も高額だったため、蒸気船が発明されるまでは依然としてかなり大きな差があったのです。
19世紀に電信が開通する前と後の、大西洋を挟む2つの大陸間の綿相場の調整のケースからも分かるように、前近代社会において情報の流通はかなり閉鎖的だったと言えます。
アメリカ・ニューヨーク港の綿花輸出業者は、綿織物工業の中心であったイギリス・リバプールの相場にとても敏感でした。
しかし当時は、印刷された新聞がリバプールから蒸気船に載せられてニューヨーク港に到着するまで、相場の動きについてはまったく分かりませんでした。
ニュースが大西洋を渡って伝わるには、7〜15日ほどかかったようです。
そのため、本来ならリバプールにおける綿花の価格設定は、ニューヨークでの価格に運賃を足した程度に設定されるべきでしたが、実際の価格の開きはもっと大きなものでした。
その後、1858年8月5日に大西洋を横断する海底通信ケーブルが敷設されたのに伴い、両地域の綿相場の情報が時間差なしで伝わるように。そのおかげで2つの市場の価格差は急激に縮まり、相場も安定したのです。
現代人の感覚では、中国とヨーロッパの金と銀の交換比率がなぜこれほど違っていたのか理解できないかもしれません。
電話やインターネットがなかった時代には、情報は非常に貴重な「資産」だったのです。
*輸送距離に必ずしも比例しない輸送価格
通信技術の発展と同様、運送技術の発展も経済に大きな影響を与えてきました。
「鉄道輸送と海上輸送の単価比較」を例にとってみましょう。
アメリカ西端のロサンゼルスからテネシー州メンフィスまで物を運ぶ場合、海運を利用すれば鉄道よりコンテナ1個当たり約2000ドルも安くなるそうです。
西部のカリフォルニアから東南部のメンフィスまで船で行く場合、パナマ運河を通ってミシシッピ河口のニューオリンズを経由し、さらにミシシッピ川を遡る必要があります。その総距離は約4800マイル〔約7700キロ〕にもなります。
一方、鉄道を使えば約2000マイルだけ運べばいいので、距離だけ見たら海上運送のほうがほぼ2.5倍かかるのです。
それにもかかわらず、海運のほうがはるかに安価になるのはどうしてでしょうか?
その答えは、海上運送の分野で技術革新が続いているからに他なりません。
新パナマックス(パナマ運河を通過できる船の最大の大きさ)級のコンテナ船を借りて長距離運送をした場合、1マイル約0.80ドルの費用で済みますが、鉄道輸送だと1マイル約2.75ドルかかります。
もちろん、2008年の世界金融危機を境に海上運賃が大幅に安くなったこともありますが、海上運賃がかなり上がらない限り、海上輸送の競争力の優位はくつがえらないでしょう。
このように費用に大きな格差が生じた理由は、1960年代初めに登場した「コンテナ船」運送システムにあります。
1960年代初頭、米軍がベトナム戦争の初戦で優位に立てず、「長期戦」の泥沼にはまったのは、補給に問題があったからでした。
当時、南ベトナムは「近代的軍隊を支援するのにこれほど適さない場所も珍しい」との嘆きが聞かれるほど、劣悪な条件の下にありました。ベトナムは国土の南北の長さが1100キロメートルを超えるのですが、十分な水深のある港がたった1カ所しかなく、鉄道も単線が1本しかありませんでした。
さらに、アメリカ軍が利用できる事実上唯一の港であるサイゴン(現在のホーチミン市)も、メコン川下流の三角州に位置しており、戦場から遠い上、港湾施設は飽和状態にありました。
したがって、艀(はしけ)を使って沖に停泊した貨物船から弾薬を積んでくる必要があったのですが、これには10日から30日もかかりました。
*コンテナが事態を打開し、東アジアに「奇跡」を運んだ
このような事態を前に、アメリカ政府も解決策を考えざるをえなかったのです。
このとき、アメリカ軍のある研究チームが輸送システムの根本的な改革を提案する報告書を出しました。
その報告書の最初の項目にあったのが、あらゆる貨物の「梱包方法の統一」、つまり鉄製コンテナでした。
コンテナは規格が統一されており、船の荷積み・荷降ろし時間を飛躍的に削減できます。
この提案は、まだ生まれて間もなかったコンテナ産業にとって画期的なチャンスとなりました。
コンテナ港が建設されると、その後の輸送はトントン拍子で進みました。
サイゴン港に代えてカムラン湾に建設されたコンテナ港へ、2週に1度の割合で約600個のコンテナが運送され、これによってベトナムで展開するアメリカ軍の補給問題は解決されていったのです。
当時のアメリカ軍の軍事海上輸送司令部の司令官が、「7隻のコンテナ船が、従来のバルクキャリアー(ばら積み貨物船)20隻分の活躍をした」と評価したほどでした。
この1件で、東アジア諸国も一大転機を迎えます。
ベトナム・カムラン湾への輸送を終えてアメリカに帰る空っぽのコンテナ船が、ちょうど建設された神戸港で日本の電気製品をぎっしり積んでいったことで、アメリカに「メイド・イン・ジャパン」ブームを引き起こしたのです。
つまり、ベトナム戦争による戦争景気に加え、運送費の劇的な削減のおかげで、日本、韓国、台湾は奇跡のような成長の機会を得られるようになったのでした。
こうして、アメリカで物を作るよりも、東アジアの安価な労働力で作った製品を輸入するほうがはるかにうまみがあるという、新しい世界が開かれました。
もちろん、最大の恩恵を受けたのは、安くて良質な製品が使えるようになったアメリカなど先進国の消費者でしたが、東アジア3国も製造業の育成によって産業国家へと成長する足掛かりを得ることができたのです。
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