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1945年「本土決戦」のイフ


日本必敗の決号作戦で“神風”が吹いた可能性

2020.08.15 

 

小川和久『NEWSを疑え!』

太平洋戦争の終結から75年。

もし戦争があのまま終結せず「本土決戦」になっていた場合、日本軍は九十九里浜や南九州で、圧倒的に優勢な連合国軍を迎え撃つことになっていました。この「必敗」としか思えない作戦に、実は対極的な2つの評価があることをご存じでしょうか?

軍事アナリストの小川和久さんが主宰するメルマガ『NEWSを疑え!』では、静岡県立大学グローバル地域センター特任助教の西恭之さんが、本土決戦(決号作戦/ダウンフォール作戦)を詳しく解説。ある自然現象が、日本にとって「神風」になっていたかもしれないという海外識者の分析などを紹介しています。


*日本が「本土決戦」をしていたら何が起きたか? 対極的な二つの考察

第二次世界大戦終戦75周年を前に、「日本が本土決戦をしていたら何が起きたか」というテーマで、対極的な二つの見方を紹介したい。

日本は戦力を急速に失いつつあったので1945年の降伏は不可避だったという『米国戦略爆撃調査』の見方と、消耗戦となり、日本が壊滅するだけでなく米軍もかつてなく多数が死傷することになったという、軍事史家D・M・ジャングレコ氏の見方である。

 

*決号作戦

日本側は1945年1月、本土決戦の本格的な準備を始めた。

米軍はフィリピン・ルソン島に上陸しており、沖縄へ進攻するのは時間の問題となっていた。

大本営は、米軍が小笠原諸島や沖縄など「前縁地帯」へ進攻した場合、持久戦によって出血を強いながら本土決戦を準備すること、本土決戦でも出血作戦によって、日本が朝鮮・台湾・満州を保持する条件での停戦を米国に強要する戦略を採用した。その陸軍作戦を決号作戦という。

 

陸軍は、主戦場になると予測した関東と九州の作戦を準備・指揮する、第1総軍と第2総軍を1945年4月に設置した。

第1総軍(東京)は鈴鹿山脈から東の本州、第2総軍(広島)は西日本を担当した。

また、航空総軍を設置し、陸軍航空部隊の指揮と教育訓練を一元化した。

北海道・南樺太・千島列島は第5方面軍、朝鮮は第17方面軍、台湾・沖縄は第10方面軍が引き続き担当した。

日本本土の陸軍兵力は、1944年夏には46万人に満たなかったが、満州からの転用や、「根こそぎ動員」と呼ばれる45年2月、4月、5月の召集と部隊新設によって、200万人に達した。

日本陸軍は、米軍が1945年10月以後に宮崎市、志布志湾、薩摩半島西岸に上陸すると、正確に予測していた。

九州の陸軍兵力(第16方面軍)は、45年4月末の4個師団強から、8月末までに14個師団、独立戦車旅団3個、独立混成旅団6個など90万人に増えた。

その多くは、薩摩半島を担当する第40軍と宮崎・志布志湾方面を担当する第57軍に配備された。

新設された「沿岸配備師団」は、海岸の横穴陣地やトーチカとその背後の丘陵から、米軍の上陸部隊を制圧射撃し、そこへ内陸から「機動打撃師団」が前進して殲滅するという作戦構想だった。

いずれも兵器が不足していたが、まず現地の地形に習熟し、その間に兵器を生産するという理由で配備された。

日本軍は米軍の九州上陸部隊の半数を、特攻機・特攻艇で撃沈することを計画した。旧式機は特攻機に、飛行訓練部隊は特攻隊にするという方針は、1万440機が対象となった。新型機2300機は対象外とされた。

戦艦大和喪失後、日本海軍は大型艦の航行を停止したので、水上・水中でも特攻が主な攻撃手段となった。

7月末には、特殊潜航艇・蛟龍73隻、同・海龍252隻、人間魚雷・回天119隻、特攻艇・震洋2850隻(陸軍の700隻を含む)が配備され、生産が続いていた。

特殊潜航艇は生還不可能ではないが、魚雷不足のため、海龍のほうは爆薬を積んで特攻することが前提となっていた。

本土の民間の15-60歳の男性と17-40歳の女性は、1945年6月23日の義勇兵役法によって、国民義勇戦闘隊という民兵に組織された。武器は、隊員各自が竹槍、刃物、弓矢、猟銃などを用意した。

本土決戦を想定して皇居、大本営、政府中枢機能を移転するための松代大本営(現・長野市松代町西条)は、1944年11月から建設され、賃金労働者(日本人・朝鮮人)と勤労動員者(日本人)が作業に従事した。

進捗率75パーセントの段階で45年8月15日を迎え、工事は中止された。

 

*ダウンフォール作戦

米軍など連合国軍の日本本土上陸作戦計画・ダウンフォール作戦は、1945年11月1日(Xデー)に南九州に上陸するオリンピック作戦と、46年3月1日(Yデー)に関東地方に上陸するコロネット作戦に分かれていた。

マッカーサー陸軍元帥が地上部隊と戦術空軍を指揮し、必要な場合は米太平洋艦隊(ニミッツ司令長官)も指揮することになった。

*南九州上陸作戦計画・オリンピック作戦。 破線は航空基地や泊地への脅威を防ぐための進出線 (Reports of General MacArthur, 米陸軍省, 1966年)

オリンピック作戦は、コロネット作戦に必要な航空基地や泊地を確保する目的で、現在の地名でいう薩摩川内市、えびの市、都農町の北側の進出線に、上陸後3-4か月で達する作戦である。

米第6軍の約14個師団、25万人のうち、Xデーには宮崎市に第1軍団、志布志湾に第11軍団、薩摩半島(串木野)に海兵隊の第5水陸両用軍団の合計9個師団が、戦艦13隻の艦砲射撃の中を上陸する。英連邦諸国の空母や爆撃機も加わる。

 

原爆も化学兵器も、日本軍に対して使用される可能性があった。

ただし、農作物に対する生物化学兵器の使用は、準備が中止された。

使用した場合、占領地に残ると推定される住民220万人の食料を全部、米国が供給する責任が生じるからだ。


*関東地方上陸作戦計画・コロネット作戦(同上)

コロネット作戦はさらに大規模で、目的は、関東平野を占領して日本軍を降伏させることである。

九十九里浜南部に第1軍、神奈川県平塚市に第8軍が上陸し、東西から東京を包囲して攻め落とす。

Yデーから10日以内に14個師団が上陸し、第1軍は鹿島灘沿岸、第8軍は埼玉・群馬・栃木・茨城県境付近の利根川中流域にも進攻する。

その後、第10軍や英連邦軍団も上陸する。


 *降伏は不可避だったという米国戦略爆撃調査

このように計画されていた日本側の本土決戦、連合国側の日本本土上陸作戦だが、終戦直後に米陸軍省が経済学者らに委託した『米国戦略爆撃調査』によると、日本は戦力を急速に失っていたので、1945年内の降伏は不可避だったという。

「全ての事実を詳しく調査し、それに関与した存命中の日本の指導者たちの証言を聞き取った結果、仮に原爆が投下されず、ロシア(ソ連)が参戦せず、上陸進攻が計画も予想もされなかった場合も、日本は確実に1945年12月31日より前に降伏し、ほぼ確実に1945年11月1日より前に降伏したと結論する」

 

1945年8月まで通商破壊と空襲を受けても、日本は降伏していなかったのに、なぜそういえるのか。

その切り札は、青函連絡船、関門トンネル、鉄道橋19本などを空襲によって遮断し、日本を5地域に分断することだという。そうすれば、本州では石炭が不足して蒸気機関車が止まるので、「日本は孤立した町や村の一群となり、工業生産も、食料を農業地帯から都市へ送ることも、軍隊と兵器を大規模・迅速に移動することもできなくなったに違いない」という。

しかし、米軍はB-29爆撃機による機雷投下も、青函連絡船や鉄道施設に対する空襲も、1945年3月ないし7月まで始めなかった。

 

* Hell to Pay(とてつもない報い)になったか

対照的に、D・M・ジャングレコ氏は、著書『Hell to Pay(とてつもない報い)──ダウンフォール作戦と日本進攻、1945-1947年』(2009年初版、17年第2版)で、日本には米軍に消耗戦を強いる意思と能力があったという多数の根拠を挙げている。

 例えば、マッカーサーの情報参謀のウィロビー少将は、九州の日本陸軍が13-14個師団相当に達したとわかった1945年7月の段階で、上記の進出線に達するまでの米軍の戦死傷者数を21-28万人と計算したうえで、控えめに20万人と見積もっている。

ジャングレコ氏によると、オリンピック作戦の戦死傷者が20万人の場合、戦闘以外の事故や病気を含むと、米軍の死傷者は50万人に達したはずだという(戦闘に復帰できる者5万人を含む)。

『米国戦略爆撃調査』や米陸軍航空軍の公刊戦史は、日本の食料事情が悪化したことも戦果に挙げている。

日本人のカロリー摂取量は、対米開戦前の1日1人平均2000カロリーから、1945年夏には1680カロリーに減り、脂肪、ビタミン、ミネラルの摂取量はさらに減った。しかし、ジャングレコ氏もいうように、一億玉砕を叫ぶ軍部にとって、それは降伏すべき理由にはならなかった。

 戦争が続いていれば、日本の本土決戦派にとって、1945年10月のルイーズ台風(阿久根台風)と46年3月のバーバラ台風は、オリンピック作戦とコロネット作戦を遅らせる「神風」となっていたとも、ジャングレコ氏は指摘している。

ソ連軍が北海道へ上陸進攻した可能性については、もし1945年8月に実行していれば失敗していると、ジャングレコ氏は分析している。

揚陸能力が不足し、ソ連軍が南樺太などへ進攻したため日本軍が警戒しており、北海道上空の航空優勢を確保できる見込みもなかったからだという。

 ジャングレコ氏の著書『Hell to Pay』は、決号作戦とダウンフォール作戦を、これまでになく詳しく分析している。しかし、分析から欠落している点もある。

日本が降伏することなく、南九州や関東地方の防衛準備を続けた場合、連合国軍は、『米国戦略爆撃調査』が提言したような方法で妨害したはずだが、そうした妨害が実行された場合の効果を計算に入れていないことだ。

この要素を加えると、消耗戦となって南九州だけで米軍50万人が死傷するとは結論できない。

(静岡県立大学グローバル地域センター特任助教・西恭之)


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