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あのイタリアがコロナ感染者「激減」させた方法

 かつての医療崩壊からはとうに脱却

The New York Times

2020年08月11日


最近のイタリア南部の都市、ナポリの様子。イタリアでは新型コロナウイルスの新規感染者数が大幅に減っている(写真:Gianni Cipriano/The New York Times)

新型コロナウイルスが西洋で広がり始めた時、イタリアはその中心地で、悪夢のような場所だった。何があっても避けるべき土地であり、アメリカやヨーロッパの多くの国々では、イタリアが感染の広がりの代名詞のようになっていた。3月17日に、アメリカのトランプ大統領は記者たちにこう言った。「イタリアで何が起こっているか見てみろ。アメリカはあんな立場にはなりたくない」。

民主党の大統領候補となることが確実視されているジョー・バイデンは、「メディケア・フォー・オール(国民全員に公的医療保険を提供する政策)」に反対すべき証拠の1つとして、医療崩壊が起きているイタリアの病院を挙げ、「まさに現在、イタリアでは(国民皆保険制度が)うまく機能していない」と討論会で主張した。


新規感染者数は世界で見ても少ない

そのわずか数カ月後には、アメリカでは新型コロナによる死亡者数が、世界のどの国よりも何万人も多くなった。イタリアを見下したような態度だったヨーロッパの国々も、再度の感染拡大に直面している。そのため、新たな規制を導入している国もあるし、もう一度ロックダウン(都市封鎖)をするべきか検討している国もある。

7月31日には、イギリスのボリス・ジョンソン首相が、感染率が上昇していることから、イングランドで計画されていた規制緩和を延期することを発表した。ドイツは、効果的な対応と綿密な接触者追跡に定評があるが、そのドイツでさえも、行動の緩みが感染者急増につながっていると警告を発した。

では、イタリアは現在どうなっているのか。

病院には、新型コロナウイルス感染症の患者はほぼいない。大打撃を受けた北部のロンバルディア州でも、日ごとの死亡者数はゼロ近辺で推移している。新規の感染者数は「ヨーロッパで見ても、世界全体で見ても、最も少ない国の1つだ」と、国立衛生研究所の感染症部門のディレクター、ジョバンニ・レツァは言う。「私たちはとても慎重に行動してきた」。

そして幸運でもあった。7月最終週には感染者数がわずかに増えたものの、イタリア人は慎重ながらも楽観的で、自分たちはウイルスを抑え込んでいると考えている。ただし、イタリアのトップの医療専門家たちは、自己満足はいまでもパンデミックに火をつけると警告している。彼らは、状況がいつでも変わる可能性があることを認識しているのだ。

イタリアは世界の嫌われ者から、完璧ではないにしろ、ウイルス封じ込めの模範生のような存在になった。そのプロセスには、アメリカを含めた世界の国々が学べる教訓がある。アメリカではこれまでウイルスをまったく抑えられず、いまでは国中でウイルスが猛威を振るっている。

イタリアはスタートではつまずいたものの、国全体の厳しいロックダウンの効果を確実なものにしてきた。警戒することで、また苦労して手にした医学的な知識を通じて、それを実現した。

10月15日まで非常事態宣言を延長

イタリア政府は、科学や技術の委員会のアドバイスを受けてきた。地域の医師や病院、医療担当の役人は、ウイルスに関する20以上の指標を毎日収集して、地域の担当機関に送り、それらの機関は集まった指標を国立衛生研究所に送った。

その結果まとまったのが、国全体の状況に関する、週ごとのX線写真と言えるものだ。政治家たちは、それを基準にして決定を下した。この様子は、3月にイタリアを襲ったパニック状態や、崩壊に近いような状況からは程遠いものだった。

7月最終週に、イタリア議会は非常事態宣言を10月15日まで延長することを決めた。議会ではジュゼッペ・コンテ首相が、「ウイルスは収束していないので」イタリアはまだ警戒を緩めるわけにはいかないと強調した。

非常事態宣言によって生じる権限によって、政府は規制を維持することができ、どんなクラスターが生じても迅速な対応、たとえばロックダウンなどが可能になる。いまイタリア政府が最も恐れているのは海外からウイルスが持ち込まれることで、政府はすでに12以上の国にイタリアへの入国制限をかけている。

「フランスやスペイン、バルカン半島の国々ではいくつもの事態が生じている。ということは、ウイルスはまったく消えてなどいないということだ」と、医師のラニエリ・ゲラは言う。ゲラは、WHO(世界保健機関)の戦略イニシアチブ担当アシスタント・ディレクター・ジェネラルである。「ウイルスはいつでも戻ってくる可能性がある」。

ロックダウンによる行動制限は、経済にマイナスであることは間違いない。イタリアでは3カ月の間、企業やレストランなどが休業を命じられ、移動も厳しく制限されて、地域や町、通りを超えた移動さえも制限された。観光業は完全に停止した。イタリアのGDP(国内総生産)は、今年10%の減少が予測されている。

しかし、ウイルスが広がって制御できない恐れが出る中で、イタリア政府はある時点で、経済よりも命を優先すると決めた。その時、コンテ首相は「イタリア国民の健康が第一であり、今後もそれは変わらない」と述べた。

イタリア政府は、ウイルスのまん延から脱却するための最も辛い部分は、厳しいロックダウンという形で、一度限りで終わったことを願っている。そして、たとえ制限はあっても、いま安全に通常の生活を再開できることも願っている。イタリア政府高官によると、経済を再開する唯一の方法は、現在であってもなお、ウイルスを抑え込むことだという。

完全に町を封鎖するという戦略は、「政府の過剰な警戒感が経済をまひさせている」との批判も招いた。しかし、アメリカやブラジルやメキシコのように、ウイルスがまだ猛威を振るっているうちに経済を再開させようとするよりも、そうした戦略のほうがずっと有効だとわかるかもしれない。

抵抗はあるものの…

無論、引き続き警戒を求めても、それに対する抵抗や嘲笑やいらだちが生じないわけではない。それは世界のどこでもそうであり、イタリアも例外ではない。

電車やバスではマスクの着用が義務付けられているが、着けていない人も、あごまで下げている人も多い。若者たちは外出し、若者たちに特有の行動をしている。それによって、ウイルスの影響を受けやすい世代が感染するリスクが高まっている。大人たちも、ビーチや誕生日のバーベキュー・パーティなどに集まり始めている。9月の学校再開に向けての明確な計画はまだない。

また、ナショナリストのマッテオ・サルビーニが主導する「反マスク」グループが、政治的な狙いもあって急拡大している。サルビーニは7月27日に、握手やハグの代わりに肘どうしを触れ合わせる挨拶をするのは「人類の終焉だ」と言い切った。

しかし、イタリアの医療の専門家は、重症患者がいないことは感染が減っていることを示すものだと言う。そして現在のところ、イタリアの不平分子はそれほど多いわけでも、力を持っているわけでもなく、イタリアが辛うじて手にした成功の軌跡を無にしてしまうほどの力はない。

コロナ危機が勃発した当初は、イタリアはヨーロッパの隣国から距離を置かれ、マスクや人工呼吸器がほとんど国境を越えて入ってくることはなかった。しかし、それが逆によかったのかもしれないとWHOのゲラは言う。

「当初あったのは競争で、協力ではなかった」とゲラは言う。「そして、イタリアは孤立していると誰もが認識していた。その結果、孤立しているからこそ実行しなければならなかったことが、結果的には他の国々の施策よりも効果的だった」。

当初、イタリアは町ごとに封鎖され、続いて北部のロンバルディア州、そしてイタリア半島全体と島々までが封鎖された。イタリア中央部と南部ではほとんどウイルスが広がっていなかったのにこの措置が取られた。これによって、北部の工業地帯で働く労働者が脆弱な南部の故郷に帰るのを防いだだけでなく、国全体としての統一的な対応が行われることとなった

ロックダウンの間、地域間の移動や、都市のブロックの間の移動さえも制限され、仕事や健康上の理由など「必要があって」出かける場合には、それを証明するための書類に記入しなければならなかった。マスクやソーシャル・ディスタンスなどに関しては、地域の警察が取り締まりを行い、違反には厳しい罰金が課せられた。人々は、渋々ではあったかもしれないが、全般的にルールに従った。

警戒感を持ち続ける

町から人の姿が消え、イタリア北部の高齢者には大きな負荷がかかるなど、苦しみが広がる一方で、ウイルスの感染率は早期に低下し、やがてグラフは平らになった。他のヨーロッパの国々、たとえばロックダウンとは異なる方法をとったスウェーデンなどでは、こうはいかなかった。

最初の大流行は医療崩壊した病院の中にとどめられ、それは大きなストレスをつくり出したものの、医師や看護師は効率的に接触者追跡をすることができた。

その後、イタリアは徐々に経済を再開し始め、ウイルスの潜伏期間に合わせて、2週間ごとに自由を拡大していった。

ロックダウンはやがて、社会の中に広がるウイルスの量を減らすという二次的な効果をもたらし、それによって、ウイルスを持つ人と接触する確率も低くなった。ロックダウンの最後には、存在するウイルスの量は急激に減少し、中部と南部の地域では、感染の連鎖がほぼ存在しないところもあった。

ゲラは、「このような病気は、常に確率の問題だ」と言う。そして、たとえば下水の中のウイルスの痕跡をモニタリングするなど、新しい早期警戒システムが感染の確率をさらに下げるという。

それでも、国立衛生研究所のレツァは、「たとえ状況が他の国々よりよいとしても、私たちは引き続き慎重でなければならない」と述べ、イタリアの対策の何が正しかったかを問うのは、「この感染症が終わりを迎えた」時にするべきだと言った。「何日か後に、イタリアで大流行が発生する可能性は除外できない。単に時間の問題かもしれない」。

 

(執筆:Jason Horowitz、翻訳:東方雅美)
© 2020 The New York Times Compan

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「○○のない仕事」が得意な人はリストラされず出世する理由

2020/08/09 

普段は決断力のある人に見えても、切羽詰まった場面では一切決断できなくなってしまったり、知識が豊富に見える人でも、難局に立たされた時に何も思いつかないなど、人の能力というのは通常の仕事だけでは意外と判断がつかないそうです。

そこで、佐藤しょ~おんさんが注目するのは、「臨機応変に対応しなければいけない場面」に遭遇したときの対応力。「マニュアルのない仕事で発揮する能力こそが本物なのだといいます。

 

 

本当の能力は「マニュアルのない仕事」にあらわれる

仕事には手順書と言われるマニュアルが存在することが多いのですが、あんな手順書に落とし込める業務って非常に限られているんですよ

ものスゴく狭い領域の中で、想定外のことが起こらない、ごく限定された業務についてマニュアルが作れるんです。そしてマニュアル化された業務、つまりマニュアルに落とし込むことができた業務は、作業料が時間の経過と共に安くなる運命にあるんです。つまりこの手の業務をやり続けて、出世することはなかなか難しいんです。

 

価値がある仕事というのは、マニュアル化できない、もしくはできたとしてもそんなマニュアルはひとつの方針というかガイドラインに過ぎないことが多いんです。

なんとなく大枠で、こんな感じでやるんですよ、くらいのことしか書いていない(そのレベルの記述しかできない)ことが多いんです。

ビジネスパーソンでも中級レベルになると、そういう仕事を任されるようになります。

その時には、マニュアルをアテにしたり、ましてやマニュアルの通りにことが進むとは考えない方が良いんです。想定外やイレギュラーなことが当たり前のように発生するんですから。

マニュアルにはそんなイレギュラーなことが起こった時に、絶対に踏み外しちゃいけないNG集とか、どっちの方向に進むべきかが書かれているだけで、後は全部自分で脳みそを絞って考えて、やるべきことを決めて、正しいかどうかが分からない森の中を走り抜けるしかないんです。

そういうのを臨機応変って言うのかも知れませんが、アタマの柔らかさとか、反応の良さとか、決断力とか、やり抜く意志力とか、困難を打開するための発想力とかって、こういう時に露呈するというか、こういう時に誤魔化しが効かない形で現れるんです。

 

だから人を評価する時に、一度はそういう状況に直面させるんですよ。

部下や同僚がそういう場面にぶつかったら、口を出さずにその人がどうやってその困難、難局、面倒くさい状況を乗り越えるのかを観察したら良いんです。

普段知識が豊富にあって、賢さをひけらかしている人でも、こんな場面になったらありきたりのことしか思い付かないなんてことは珍しくありません。

決断力があると思われている人でも、マニュアルに書かれていないことは決断ができないとか、日和ってしまうなんてこともたくさんあります。

つまり臨機応変って、その人の素がありのままの形で現れるんです。

素こそがその人の能力ですからね。素以外は取り繕った、お化粧みたいなモノで、そんなモノは切羽詰まった場面では役に立たないんです。

逆に言えば、臨機応変が必要とされる場面は、ライバルを抜き去る絶好の機会になるということです。

その場にいる誰も正解が分からない、時間は押し迫っている、プレッシャーも掛かってきた。

こういう場面で、何をどうしから良いのかを考え、決断し、責任を取ってやり切れると、あなたの株がドカンと騰がるんですよ。つまりこれは、能力のある人には、非常に大きなチャンスになるということ。

 

豊臣秀吉が若い頃、最初に織田信長に評価されたのが、墨俣一夜城を作った時なんですね。

川の中洲に城を作って、それを橋頭堡にして戦いたいという状況で、信長の配下はみんな同じことを思っていて、何度も築城しようとするんですが、相手方もその場所の重要性は認識していたため、なんとか城を作らせないように抵抗するわけです。

で、最初に佐久間信盛に作らせるんですが失敗、次に柴田勝家にやらせるんですがこれまた失敗。

城の作り方なんてのは、当時でもマニュアルにできるくらい手順は決まっていたんですが、そんなマニュアルは役に立たないわけですよ。

だってマニュアルには、築城時に敵が攻めてくるなんて想定は書かれていないんですから。

その時に当時、木下藤吉郎と呼ばれていた後の秀吉が一夜で城を完成させてしまったんですね。

この場面は太閤記に必ず出てくる有名なシーンなので、どうやって作ったのかは自分でググってください。

まさに臨機応変の全ての要素が盛り込まれたやり方なんですが、信長はこの時の秀吉を見て、彼の優秀さを正しく理解したんだと思います。

これと同じようなことって、ビジネスの場面でも頻繁に起こるんですよ。



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