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本当に強い雑草は「立ち上がらない」という真実

やみくもな根性論を押し付けてはいけない 

稲垣 栄洋 : 静岡大学農学部教授

2020年08月10日


雑草に学ぶ「弱者の戦略」とは?(写真:Kazu / PIXTA)

新型コロナウイルスの影響で、先の見えない生活が続いている。

目まぐるしく変化する状況の中、私たちはどう生きていくべきか。

簡単に答えは出ないが、環境を選べない雑草は自らのあり方を合理的に変化させて生き残ってきた。

『雑草という戦略』には、仕事にも通じる植物の生きざまが紹介されている。


「変化」に対する2つの対応

「変化」に対して私たちは、どのように対応すればいいのだろうか。変化への対応の仕方として、相反する2つの考えがある。1つは「変化に惑わされず、1つのことに専念して継続することが大事だ」という考え方である。一方、「同じことを続けていてはいけない」という考え方もある。

雑草はこのどちらを選択しているのだろうか。

植物は動くことができない。動物は動くことができる。そのため、エサや居心地の良い場所を求めて、移動することができる。ところが、植物は動くことができないから、そこに種子が落ちたとすれば、そこがどんな場所であろうと、そこに生えて、そこで一生を終えるより他にないのだ。

「変えられないものは受け入れる」

それが植物の、基本的な生き方である。

変えられないものとは、何か。それは自らが生える環境である。そこの環境条件は、植物自身は変える力を持たない。あるいは、まわりに生えている植物も変えられない。変えられないものは、受け入れるしかないのだ。

それでは、植物にできることはないのだろうか。もちろん、ある。

「変えられるものを変える」

それも植物の、基本的な生き方である。

変えられるものとは、何か。それは植物自身である。自分の体や成長の仕方はいかようにも変えることができる。そのため、植物は自分自身を変化させるのだ。

生物の変化できる能力を「可塑性(かそせい)」という。動くことのできない植物は、動物に比べて可塑性が大きい。たとえば、体のサイズを考えてみても、人間の大人であれば、大きい人と小さい人とで倍も身長が違うということはない。しかし、植物では同じ種類であっても、倍くらい高さが違うということは当たり前に起こる。

植物の中でも、雑草は特に「可塑性が大きい」とされている。つまり、変化できる力が大きいのだ。

雑草の変化する能力には、環境によって自分自身を変化させていく「表現的可塑性」と、次の世代に自分と違うタイプを残す「遺伝的多様性」とがある。ここでは、環境に適応して自分自身を変化させる「表現的可塑性」の話をしよう。

私が学生時代に研究していたイチビという雑草は、図鑑では1メートルくらいの大きさと記されている。しかし、5センチくらいの大きさで花を咲かせていることもある。そうかと思えば、飼料用のトウモロコシ畑では、背の高いトウモロコシと競い合って、4メートルを超えるような草丈になっていることもある。まさに大きさは自由自在。可塑性が大きいのだ。

大きさばかりではない。伸び方も自由自在だ。雑草は種類によって、茎を横に伸ばしてテリトリーを広げていく「陣地拡大型戦略」と、そうではなく、上に伸びて自分のテリトリーでの競争力を高めていく「陣地強化型戦略」の二つがあると言われている。新たな陣地へと拡大すべきか、持っている陣地を強化すべきか、ビジネスの場面でも二つの戦略があることだろう。

それでは、そのどちらの戦略が有利なのだろうか。それは、愚問である。どちらの戦略が有利であるかは、状況によって変化する。

そのため、「やっかい」と言われる雑草の戦略が「使い分け型戦略」である。つまり、状況によって戦略を変化させるのだ。

ライバルのいない空き地のような環境では、その雑草は陣地拡大型戦略で横へ横へと茎を伸ばして、テリトリーを広げていく。しかし、ライバルとなる植物が現れると、一転して立ち上がり、競争力を発揮する陣地強化型戦略をとるのである。

大きさも自由自在、伸び方も自由自在。臨機応変に環境に対応して、変化するのである。 

誰かが決めた「べき」を捨てる

雑草は、図鑑に記載されたとおりに生えていないことがある。花期は春と書いてあるのに、秋に咲いていることもある。草丈は30センチくらいと書いてあるのに、人間の背丈ほど大きくなっていることもあるし、立ち上がることなく地面を這は っていることもある。まったくつかみどころがないのだ。

また、雑草には「一年生雑草」や「多年生雑草」という分類がある。
芽を出してから一年以内に種子を残して枯れるものが、一年生雑草である。一年生雑草は春に芽を出して秋に種子を残す「一年生夏雑草」と、秋に芽を出して春から夏に種子を残す「一年生冬雑草」(越年生雑草)に分けられる。これに対して、数年以上、生息するものは多年生雑草と呼ばれている。

植物にとって、一年生か多年生かというのは、ごくごく基本的な分類方法である。ところが、雑草の中には、この分類さえ飛び越えて変化してしまうものもある。

たとえば、ヒメムカシヨモギは、道ばたや空き地、畑などあらゆる場所によく見られるキク科の雑草である。ヒメムカシヨモギは、秋に芽生える越年生の雑草である。冬の間に葉を広げて栄養分を蓄えると、春から夏にかけて茎を伸ばして花を咲かせる。

ところが、環境の変化が激しい場所では、ゆっくりと成長して花を咲かせている余裕はない。そこで、春から夏にかけて発芽し、数週間の間に成長して花を咲かせてしまう。つまり、一年生夏雑草として、生活をしているのだ。また、ヒメムカシヨモギは北米原産の雑草だが、冬のない熱帯地域に広がったものは、越冬の必要がないから、もっぱら多年生雑草として暮らしている。こうして、臨機応変に、その暮らしぶりさえも変えてしまうのである。

所詮は人間が決めたもの

分類というのは、人間が植物を理解するために、勝手に作っているだけのものに過ぎない。図鑑もそうである。雑草の立場に立ってみれば、別に図鑑のとおりに生えなければいけないという義理はまったくないのだ。

図鑑の説明というのは、私たちが勝手に決めている「制約」であったり、「固定観念」だったりするかも知れない。業界や業種など、私たちは勝手に区別をして分類している。「……らしくない」「……べきである」などと、その分類にレッテルを貼って、わかったつもりになっている。そして、勝手に自分たちで枠を決めたり、勝手にあるべき像を描いているのだ。

しかし、そんなものに縛られる必要はない。私たちはもっと自由に発想していいのだ。

「誰かが決めた『べき』を捨てよ」

図鑑に書かれたとおりに生えることを知らない雑草たちを見ていると、そう思わずにいられない。

「雑草は踏まれても踏まれても立ち上がる」

もしかすると、雑草に対してそんなイメージを抱いていないだろうか。
残念ながら、それは誤解である。

もしかすると、一度や二度踏まれたくらいであれば、雑草は立ち上がってくるかも知れない。しかし、何度も踏まれると雑草は立ち上がらなくなる。

「踏まれたら、立ち上がらない」というのが本当の雑草魂なのだ。

雑草にとって、もっとも重要なこと

雑草魂というと、踏まれても踏まれても立ち上がる不屈の魂をイメージするかも知れない。雑草のように頑張ろうと歯を食いしばってきたのに、それでは、あまりに情けないとがっかりするかも知れない。

しかし、本当にそうだろうか。私は、「立ち上がらない雑草魂」こそが、雑草のすごさであると断言できる。

冷静に考えてみてほしい。そもそも、どうして立ち上がらなければならないのだろうか。

雑草にとって、もっとも重要なことは何だろうか。

それは、花を咲かせて種子を残すことにある。そうであるとすれば、踏まれても踏まれても立ち上がるというのは、かなり無駄にエネルギーを浪費することである。

そんな余分なことにエネルギーを使うよりも、踏まれながらどうやって花を咲かせるかということの方が大切である。踏まれながらも種子を残すことにエネルギーを注ぐ方が、ずっと合理的である。だから、雑草は立ち上がるような無駄なことはしない。

踏まれている雑草を見ると、踏まれてもダメージが小さくなるように、地面に横たわるようにして生えている。そして、雑草は踏まれながらも、最大限のエネルギーを使って、花を咲かせ、確実に種子を残すのである。

踏まれたら立ち上がらなければいけないというのは、人間の勝手な思い込みではないだろうか。プライドや世間体のために立ち上がろうとしているだけではないだろうか。

踏まれても踏まれても立ち上がるやみくもな根性論よりも、雑草の戦略は、ずっと合理的である。そして、ずっとしたたかで、たくましいのである。 

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京都言葉

京都人は遠回しな表現を巧みに使い、本心を直接は口にしないといいわれています。

上から目線で嫌味な性格の人が多いと感じる人もいるかも知れません。

また、遠回しな言葉は、人に恥をかかせないための思いやりとも取れます。

場合によっては「そう言う意味ではなかった」とお茶を濁すことができるようにしているのでは?という声を聞かれそうですよね。

コロナ禍において、京都の実家から東京の息子に「マスク足りてる?」と言われたら息子はどう感じるでしょう?普通に考えたら、再び感染者数が増え、親が息子の東京の生活状況を心配しているやり取りでしょう。

しかし、この親子の会話の本当の意味は、「今年のお盆は帰省するな」という内容が含まれているといいます。

100%そうではないかも知れませんが、京都人ならそのように解釈する人が普通にいるとのことです。普通に考えたら遠回し過ぎて真意が理解が出来ないですよね。

よく笑い話なのか本当の話なのか分からないものに、京都人と商談中に「いい時計してますねー」と言われたら、「話が長い、早く切り上げろ」というサインだというのがあります。

このエピソードなんかも京都人ならではの歪曲表現をよく表したものなのかも知れません。

京都人のDNAには、千年以上日本の文化を支え、発展させ、発信してきたという自負のようなものがあるのではと思います。

天皇や貴族がいて、最重要顧客は皇室だという環境で商売をしてきた長い歴史があります。

その根底には常に謙譲の心があり、人を先に立てて、自分は出過ぎないという心構えが自然と身についたのではないでしょうか。

直接的な表現で本音を言わないのはそのような歴史の流れと深く関わりがあることでしょう。

また、平安時代から都として日本の中心であったため、様々な権力者に支配されてきました。

自らの主張を控え、本音を直接表に出さないことが生き残るための術だったという説もあります。

 

物事を遠回しに言う習慣は京都人に限ったことではありません。

「私的には」などと言う言い回しなどは正にその一例といえるでしょう。

あまり深く考えることもないでしょうけど、相手を思いやる気持ちや、他人の生活や状況をイメージする力を働かせて良好なコミュニケーションを心がけたいですよね。

 

 



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