非まじめは、不まじめではない


日曜日のセレンディビティ 《 非まじめ 》  ☜ あるBLOGから、「非まじめのすすめ」を発見!!

 

『非まじめのすすめ』(講談社文庫)という本を、私は愛読しています。

(中略)

「まじめ」は美徳です。「不まじめ」は、まじめに対する悪徳です。私たちは人を選ぶとき、まずまじめか不まじめかを選別し、まじめな人を取り、この人を愛し、この人でなければならないと惚れこみます。

その反面、不まじめな人を嫌い遠ざけます。 

しかし、森政弘先生は、ここでこう助言されるのです。

****************  

「まじめは美徳であるが、まじめの基本的な性質は一面的で一方的で視野が狭い。不まじめは困るが、ここにいう『非まじめ』は、まじめに対する非まじめの意味ではない。正・反・合というように、正のまじめと、反の不まじめとを共に包括して、しかもそれを超えた徳性を『非まじめ』という」(同書45~60ページより抄意)

****************

すると、非まじめは悪徳どころか、最も好ましい美徳です。ところが、振り返って私どもの毎日の生活を見ると、多くの場合、自分の立場に立って物ごとを相対的に二つに分けてしまうために、自分で苦の種を蒔いているようです。

善いとか悪いとか、美しいとか醜いとかの比較からはじまり、すべてを対立させて、愛したり憎んだりしているのです。 

森先生は、その実例を挙げて説明されます。

****************

「親と子の分裂、教師と生徒との分裂、美と醜、貧と富……など、心がかく対立の世界に埋もれているかぎり、頭の中が二つに分かれ戦っている。この分裂から脱却して統一体になれば救われる。仏教でいう無分別(むふんべつ)が重要視されるゆえんだ。そこで対立した二つの概念を一つに合わせていく訓練をする。たとえば、この人は美人だ、あの人はブスだなどと、人の美醜を評価することは醜いことだ。美と醜とを超越して、美醜を分別しないことが、美しい姿勢と考える……」

   ****************

いま森政弘先生が挙げられた仏教用語の「無分別」は、分別の否定です。

仏教用語の「分別」は、一般にいう「常識」とは違って、物ごとを「善と悪」「高と低」というように文字どおり二つに分(別)けて比べる考え方をいい、「無分別」は、物ごとを二つに分(別)けて比べない考え方をいいます。

そして仏教では、分別よりも、無分別のほうを一応正しい考え方と見ます。

しかし、無分別の発想だけに執(とら)われると、今度は「無分別」対「分別」という、また新たな対立観が生まれます。

この対立を解決するために、無分別観を正、分別観を反として、正・反・合と築きあげた統一を、森先生は「非まじめ」と名づけられるのです。

「まじめ」は、もともと仏教用語の「真面目(しんめんもく)」から転じた言葉です。

真面目は事象(物ごとや現象)の本来のさまなので、禅では「本来(ほんらい)の面目(めんもく)」といいます。 

森先生もここを踏まえて、

****************

「(私は)まじめと不まじめとの対立を超えて、天から賦与(ふよ=配り与える)された人間本来の面目に立ち返った状態を『非まじめ』と、こういうつもりである」(同書46ページ)・・・と、明快に定義されるのです。

 ****************

仏教の経典を読んでいると「非・不・無」の字に数多く出会います。

しかし森先生が言われるように、この三字が整然と区分けして用いられているとは限りません。

入り混じって使われていますが落ち着いて読めば、用法の区別がはっきりとつきます。 

これから読む般若心経では「不」が九字、「空」が七字、「無」が二十一字も用いられていますが、「非」は一字も見受けません。心経の場合は「不や無や空」が「非」の意味で使われているのが、よくわかります。

☞『わたしの般若心経』http://tinyurl.com/lyl4oq3
   【 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p28 】



メール・BLOG の転送厳禁です!!  よろしくお願いします。