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渋沢栄一の慧眼!「弱者を包摂した社会」の強さ

コロナ禍こそ求められる「有機体論」の思想

中野 剛志 : 評論家
2020年06月17日

渋沢栄一の「有機体論」的な社会観とはどのようなものだったのでしょうか(写真:アフロ)

内外で議論の最先端となっている文献を基点として、これから世界で起きること、すでに起こっているにもかかわらず日本ではまだ認識が薄いテーマを、気鋭の論客が読み解き、議論する「令和の新教養」シリーズ。

今回は、『日本経済学新論 渋沢栄一から下村治まで』を上梓した中野剛志氏が、コロナ以後の国家と社会の形を「機械」と「有機体論」の2つの視点から捉え直す。

☞ 水戸学のプラグマティズムを、近現代日本を支えた経済思想へと発展させた人物こそ、渋沢栄一であった。

『論語と算盤』で水戸学の朱子学批判を賎商思想批判へと読み換え、尊王攘夷思想から継承した経済ナショナリズムで日本の近代資本主義を確立した渋沢。その精神を受け継ぎ経済政策の実践に活かした高橋是清、岸信介、下村治ら実務家たちの思想に「日本経済学」と呼ぶべき思考様式を見出し、そのプラグマティズムと経済ナショナリズムに危機に立ち向かう実践的姿勢を学ぶ。



*「機械論」と「有機体論」の2つの系譜

評論家の佐藤健志氏が、国家は、「政治的身体」として観念されるとしたうえで、新型コロナウイルス感染症に対して「自然的身体」はもちろん、文字どおり「政治的身体」をも守らなければならないという興味深い論考を展開している(参考記事:「疫病と自粛疲れから『国民の2つの身体』を守れ」「コロナ対策は『予防徹底は不可能』が前提だ」「『自国優先』にもグローバリズムが必要な逆説」)。 

この「政治的身体」観は、社会を1つの有機体にたとえる「有機体論」としても知られている。
実は、社会科学の系譜には「有機体論」以外にも、社会を有機体ではなく「機械」のようにみなす「機械論」というものがあった。
機械論」は、人間を物理現象における「原子」のように、あるいは機械における「部品」のように、独立した「個」として捉える。そして、そのような部品としての個人が集合し、一定の規律に従って行動すると、社会は1つの「時計」のように、各部品を自動的に調整して規則正しく動く。
社会をこのようにイメージするのが「機械論」である。

「機械論」では、社会が、一定の原理に従って精密かつ自動的に動くものと想定しており、そこに予測不能で不規則な変動、進化あるいは成長といった概念が入る余地はない。「機械論」的な社会観は、極めて硬直的で静態的である。
そして、社会科学者の役割は、社会が内蔵する機械的な原理を見つけ出し、その原理が円滑に作動するように設計することである。それができれば、社会は原理に従って自動的に調整されるので、政府が介入する必要はない
これに対して、「有機体論」における人間は、社会におけるほかの人間と関係を結び、相互に交流し、社会の中でしか生きられない存在とみなされている。

個人は機械の中の部品ではなく、有機体の中の細胞のイメージなのである。

そして社会は、生物のようにつねに動き、進化し、成長する。「有機体論」的な社会観は、柔軟で動態的なのである。
この「機械論」と「有機体論」の2つの系譜のうち、経済学において主流を占めてきたのは、実は「機械論」のほうであった(逆に「有機体論」が優位だったのは社会学である)。
今日でも、主流派(新古典派)の経済学は、「機械論」的な論理で構成されている。
主流派経済学の理論では、人間は独立した「個」として機械部品のように扱われている。

そして、市場は自動的に「均衡(equilibrium)」するとされるが、この「均衡」というのは機械力学の用語である。
しかも、この均衡を実現する原理は、文字どおり「価格メカニズム」と呼ばれているのだ。

そして、この「価格メカニズム」があれば、政府は市場に介入する必要はない

主流派経済学者は、市場経済を自動機械のようにみなしているのである。 
これに対し、主流派の「機械論」を拒否し、「有機体論」的に経済を捉えようとする異端の経済学の系譜もあった。

例えば、ドイツ歴史学派や制度経済学などがそれに該当する。ほかにも、アルフレッド・マーシャルは、新古典派経済学の創設者の1人とされながらも、経済学を生物学的なアナロジーで考えようとしていた。
個人が1つのまとまりのある経済に属し、その経済の構成員と不断に交流する中で、経済はつねに変化し続け、成長し、あるいは衰退する。しかし、均衡して止まるようなことは決してない。
もし動きを止めれば、経済は死滅する。このように考える「有機体論」的経済学は「組織(organisation)」を分析対象として重視するが、「組織」という概念は生物学にもあるだろう。
この「有機体論」的経済学は、格差の拡大、労働者の疎外、あるいは貧困といった社会問題に対しても強い関心を示してきた。というのも、社会問題は、国民経済という「身体」の不調、要するに病気とみなされるからである。
こうしたことから、例えば、ドイツ歴史学派の経済学者たちは、社会問題の研究と解決を目指して、1872年に「社会政策学会」を設立した。

 

*渋沢栄一の社会観

日本でも、1896年、ドイツ歴史学派を学んだ東京帝国大学教授の金井延が中心となって「社会政策学会」が設立された。
明治日本の近代資本主義化に伴って生じた社会問題に対処するためである。その金井は、社会問題を病にたとえて、「有機体たる社会の一部に生ずる病は局部的の病でなくして結局全部の病である」とし、「社会全体の上に病的影響を及ぼし全社会の安寧秩序を危うくする」と述べている。
この社会政策学会の第1回大会が1907年に開催された際、来賓として招かれた渋沢栄一は、社会政策学会の趣旨に賛同する旨を表明した。
渋沢は、明治日本を代表する資本家であったが、社会問題にも重大な関心を示し、その解決に向けて奔走した人物でもあったのである。
渋沢は、「論語と算盤」あるいは「義利合一」の理念の下、実業家に対し、「国家的観念」を念頭に置き、社会や国全体の利益のために行動することを求めた(「『論語と算盤』は『ナショナリズムと経済』だった」)。 


*有機体である国家の衰弱を招く前に

実業家が自己利益の追求に走り、大きな貧富の格差が放置されると、労働者や社会的弱者が疎外される。

その疎外による不満や社会不信は、思想の過激化を招く。したがって、過激思想の蔓延を防ぐためには、格差が小さく、国民各人が互いを思いやり、助け合うような健全な社会を構築しなければならない。 
このように考えた渋沢は、「出来るだけ身体諸機関を強壮ならしめて、仮令病毒の浸染に遭ふとも、立ち所に殺菌し得るだけの素質を養成して置くこと」 [青淵百話]が肝要であると説いた。
要するに、弱者を包摂した健全な社会(強壮な身体)であれば、過激思想(病毒)の蔓延を未然に防ぐことができるであろうというのだ。このように、渋沢の社会観もまた「有機体論」的であった
現在、新型コロナウイルスの感染拡大は、経済に深刻な打撃を与え、倒産、失業、貧困を急増させており、政治に対する国民の不満・不信は、日に日に高まっている。このような状態が放置されたままだと、いずれ国民の不満・不信は、過激思想の感染爆発を引き起こし、「政治的身体」たる国家を衰弱させるだろう(「戦前昭和の軍部台頭を招いた『健全財政』の呪縛」)。
このコロナ禍の今ほど、「有機体論」の思想が求められるときもあるまい。

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