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日本企業が知るべきイギリス離脱後の焦点

ジョンソン首相の「脅し戦術」は通用するか

中村 稔 : 東洋経済 記者
2020年02月10日


ジョンソン首相がこれからのさまざまな交渉でどんな態度で臨むのか(写真::新華社/ニューズコム/共同通信イメージズ)

「この国のすべての潜在力を解き放つ。新時代の夜明けだ」。1月31日、イギリスのジョンソン首相はそう高らかに宣言し、EU(欧州連合)からの離脱を自ら“祝福”した。

2月3日には、これから始まるEUとの新たなFTA自由貿易協定)交渉について、「EUルールの受け入れを含む必要はない」と断言。

EUがイギリスに同じ規則やルールを押しつけようとするなら、交渉打ち切りも辞さない構えを示した。アメリカのトランプ大統領と同様の「ディール(脅し)戦術」で、EUの譲歩を引き出す狙いがある。

これに対しEU側も強硬姿勢を崩さない。EUの内閣に当たる欧州委員会のフォンデアライエン委員長は、「われわれは経験から『光栄ある孤立』(19世紀にイギリスがとった外交政策)に強さはないと学んだ。われわれの連合にこそ強さがある」と、イギリスのEU離脱を批判。
今後の交渉で、「人の移動の自由を打ち切るなら、資本や物品、サービスの移動の自由もない。環境、労働、税制、政府補助金に関する公平な競争条件が維持されなければ、世界最大の単一市場(であるEU)への質の高いアクセスは実現しない」とクギを刺す。



*今後を見通す5つのポイント

2016年6月の国民投票で離脱を決めてから3年7カ月。

紆余曲折を経てようやく実現したEU離脱だが、イギリスとEUはすでに新たな将来関係をめぐって激しい火花を散らしている。

さらにイギリスは、日本やアメリカなど第三国とも並行して新FTA交渉を始める。

こうした交渉の行方は、イギリスとの輸出入や欧州におけるサプライチェーン戦略など日本企業の経営をも大きく左右しかねない。
そこで、①イギリスとEUの交渉スケジュール、②交渉の争点、③交渉のシナリオ、④日本とイギリスとの新たなFTA交渉、⑤日本企業に与える影響、という5つに分けて展望してみたい。
第1のポイントであるイギリスとEUとの交渉スケジュール。

これまでの交渉では、最優先課題の3つ(市民の権利保障、イギリスのEU債務の清算、北アイルランドの国境問題)が協議され、「離脱協定」として合意・批准された。あわせて、イギリスとEUの将来関係の大枠を定めた「政治宣言」も採択された。
離脱後の今後は、政治宣言をたたき台として、イギリスとEUとの「将来関係協定」が交渉される。

その範囲は物品、サービス、投資、金融サービス、デジタル、知的所有権、漁業などの「経済パートナーシップ」のほか、犯罪・テロ対策、防衛などの「安全保障パートナーシップ」など幅広い。

とくに注目される経済パートナーシップについては、これまでの「単一市場・関税同盟」に代わる新たなFTAをめぐって交渉が行われる。
将来関係交渉のために設定されているのが「移行期間」だ。期限は2020年末まで。その間、イギリスはEUの単一市場と関税同盟にとどまり続ける。つまり、「完全な離脱」となるのは、激変緩和措置である移行期間が終了したときだ。
交渉にあたって、EUでは2月25日のEU閣僚理事会で基本方針が決定され、それが欧州委員会のバルニエ首席交渉官が交渉する際の指針となる。正式な交渉開始は3月初めとなりそうだ。
次の節目が2020年6月末。それまでに移行期間の延長の是非を判断する必要がある。
2021年末または2022年末まで1度だけ延長できる。イギリス側は断固延長しない方針だが、いざとなったら法改正で延長は可能だ。

移行期間を延長しなければ、期限の今年末までに交渉をまとめる必要がある。

新たな将来関係で合意・批准できれば、2021年1月から発効する。 

 

*最大の争点は「公平な競争条件」

第2のポイントは、交渉の争点。

イギリスが目指すのは、関税や数量規制、通関手続きはできるだけゼロのまま、独自に規制や税制、ルールを決めたり、移民を制限したりできるようにすること。自由貿易を維持しながら「主権の回復」を実現することだ。
一方、EUは単一市場を構成する「ヒト、モノ、サービス、資本の自由移動」は不可分であり、ヒトの自由移動だけを分離するのは認められないとの立場だ。
また、イギリスとの地理的な近さや経済相互依存関係の深さを踏まえ、「離脱後のイギリスが製品規格や税制、補助金制度などをEUルールから乖離させ、過度に高い競争力を得ようとすることを認めたくない」(吉田健一郎・みずほ総合研究所欧米調査部上席主任エコノミスト)。
そのため、最大の争点は「公平な競争条件(レベル・プレイング・フィールド)」となるのは間違いない。

つまり、政治宣言で掲げた政府補助金、独占禁止法、社会・雇用規制、環境基準、気候変動、税制などの「公平な競争条件」を、どこまで関税撤廃などFTAの中身と連動させるかだ。

EUはイギリスが規制緩和や減税で競争力を強化し、「テムズ川のシンガポール」になることを警戒している(写真はロンドンのテムズ川)(記者撮影)

ジョンソン首相は、移民制限や規制の独立性を確保しながら関税はほぼゼロ(撤廃率98%)というEU・カナダ間の包括的経済貿易協定(CETA)をモデルとした「カナダ型」のFTAを目指す方針を打ち出し、EUルールに従うことは拒否すると明言している。

これが実現しなければ交渉打ち切りも辞さない構えだ。
仮にイギリスが交渉を打ち切れば、WTO(世界貿易機関)ルールの関税や通関手続きが発生する「合意なき離脱」に近い状況になる。

一方、EU側のバルニエ首席交渉官は、イギリスのEU市場へのアクセスはあくまでEUルールへの準拠が条件との立場を繰り返しており、双方が妥協できるか予断を許さない状況だ。


*交渉は「部分合意」の可能性が高い

第3のポイントは、想定される交渉のシナリオだ。大きく分けて4つある。

①2020年末までに経済、安保面を含めて包括的な将来関係で合意、②物品のFTAなどに限って部分合意、③移行期間を延長して交渉継続、そして、④移行期間内に交渉がまとまらず「合意なき離脱」に至る最悪シナリオだ。
最も可能性が高いと見られるのが、部分合意だ。

ジョンソン首相就任日にロンドンで行われた抗議デモに参加した若者たち(写真は2019年7月)。20代、30代にはEU残留派が多い(記者撮影)

優先順位の高い物品のFTAなどで合意し、残りは移行期間終了後に協議を継続する形だ。

FTA交渉には通常、数年かかることが多い。

イギリスはこれまでEU内にいた分、一から交渉するケースと比べて交渉は容易との見方もあるが、2020年末までに包括協定を結ぶには時間があまりに短すぎる。
移行期間が延長される可能性もあるが、ハードルは決して低くない。

「移行期間中は第三国と協定を発効できず、欧州司法裁判所の管轄下に置かれ、EU拠出金も払い続けなければならず、権限の回復を公約したジョンソン政権として政治的に難しい」(伊藤さゆり・ニッセイ基礎研究所経済研究部研究理事)。

合意なき離脱」という最悪シナリオについて、ジョンソン氏は可能性をちらつかせるが、相手の譲歩を引き出す「瀬戸際戦術」と見られる。

合意なき離脱となれば主要輸出品である乗用車に10%の関税が適用されるなど、EU向け輸出が全体の5割近くを占めるイギリスのダメージは大きい。ジョンソン氏としても国内外資の撤退を加速させるようなことはしたくないだろう。


ロンドンの金融街シティはブレグジット後に競争力を維持できるのか(記者撮影)

イギリスの中心産業である金融サービス業については、EU内のどこか1カ国で認可を得れば域内全域で自由に事業ができる「単一パスポート制度」が移行期間終了後に失効する予定。ただ、イギリスで認可を取得した金融機関は、欧州大陸側にも現地法人を新設するなどすでに対応済みだ。

残る争点は「同等性評価」(EUの金融規制と同等であることを条件に、非EU国の金融機関に対し単一パスポートに準じたアクセスを認める制度)だが、EUルールに縛られるのを嫌うイギリスと、域外金融機関によるアクセス制約に傾くEUとの見解の隔たりは大きい。


第4のポイントは、日本とイギリスとの新たなFTA交渉の見通し。

移行期間中は、2019年2月に発効した日本とEUの経済連携協定(EPA)が維持される。

その間に新FTAに合意し、移行期間終了後の2021年1月発効を目指す。移行期間延長なら発効も先送りとなる。

両国政府は日EU・EPAを上回る「野心的な内容」を目指しており、イギリスは環太平洋連携協定(TPP)への参加にも関心も示す。日本側は、日EU・EPAでは発効後8年目にゼロ(当初10%)となる自動車関税について撤廃前倒しを求める構えと見られる。

*新FTA締結が移行期間内に間に合うか

もし移行期間内に合意できなければ、日本とイギリスの間での関税や通商ルールは日EU・EPA以前の条件に戻ってしまう。

だが、直前までEU加盟国だったイギリスと日本が交渉で激しく対立することは考えにくく、移行期間内に合意できる可能性は高い。

そして第5のポイントは、日本企業に与える影響と想定される対応だ。

財務省貿易統計によると、2019年の日本のイギリスへの輸出額は1兆5134億円(世界全体の2.0%)、輸入額は8877億円(同1.1%)。

一方、国際収支統計によると、日本のイギリスに対する直接投資残高は2018年末現在、約18兆円で世界全体の約10%を占める。イギリスに進出する日本企業は約1000社に及ぶ。
移行期間中は、ビジネス環境は基本的に変わらない。変わるのは移行期間後だ。

「影響度は企業のビジネスモデルによって違う。EU・イギリス間、日本・イギリス間のFTA発効が間に合わないリスクも考慮して対応を準備する必要がある」と、日本貿易振興機構(ジェトロ)の田中晋・欧州ロシアCIS課長は話す。
イギリスと輸出入関係のみの企業については、日本とイギリスの新FTA締結が移行期間終了までに間に合うかが焦点。

間に合わないと、日EU・EPAも使えなくなるため、それも念頭に置いた対策が求められる。
一方、イギリスに製造拠点があり、原材料を欧州大陸から輸入し、完成品を欧州大陸へ輸出する企業の場合、合意なき離脱になると、新たな関税が往復2度発生する可能性が高い

とくに自動車業界ではこうしたサプライチェーンの構造が多いので影響は大きい。
日本商工会議所の三村明夫会頭は、イギリスのEU離脱は「企業にとってプラスはまずない」と述べている。

たとえ新たなFTAで合意し、関税ゼロが維持されたとしても、通関手続きの発生は避けられない見込みだからだ。

ジェトロの田中氏は、「物流に要する時間の増加やコストの増大によって、ジャストインタイムの生産体制に影響が生じたり、工場の採算が悪化したりする懸念がある」と指摘する。
イギリスが検討中の新たな移民政策(オーストラリア型のポイント制)が、雇用や賃金面など企業経営にどんな影響を与えるかも不透明だ。ホンダや日産自動車のように、イギリス事業の縮小・撤退決断が加速する可能性は否めない。

 

*あえて積極的に投資する企業も

一方、あえてイギリスに積極投資する企業もある。

NTTやソフトバンク、アメリカのフェイスブック、グーグルなどのIT・通信大手が代表例だ。

通商問題の影響が比較的小さいこともあるが、彼らが理由に挙げるのが、イギリスの人材力・技術力の高さや情報・マネーの集積。歴史的なポンド安も利用し、人員増強や事業買収を図っている。
「ITサービス業がモノづくりをするなど、デジタル化で業界の境目がなくなり、既存のビジネスモデルが成り立たなくなっている。通商関係の変化だけではなく、産業界のゲームチェンジの動向も見据えながら、守りと攻めの戦略を考えていく必要がある」と、PwCジャパンの舟引勇ディレクターは言う。
ホンダのイギリス撤退にしても、電動化やAI自動運転など、まず自動車市場の劇的な構造変化が決断の背景にある。

ブレグジットはその経営判断をさらに後押しする要因となった。

今後も日本企業は、それぞれが置かれた市場構造の変化と、対アメリカ・対中国を含む通商関係の変化に即応した経営戦略を追求してくことが重要になる。

 



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