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「手紙で人を口説く達人」秀吉の筆まめ文章術

相手を「感動させる」という点に優れていた

加来 耕三 : 歴史家、作家
2020年01月02日


日本史において、手紙の「文章」は、命運を賭けた戦略を遂行するうえで、重要な役割を担っていました。拙著『心をつかむ文章は日本史に学べ』でも詳しく解説していますが、実際、織田信長や豊臣秀吉、西郷隆盛、坂本龍馬など、歴史に名を残した人たちは、何かにつけて手紙を活用しています。


文章の達人でもあった豊臣秀吉

なかでも豊臣秀吉は、常日頃から相手を気遣う手紙を方々に送っており、そのおかげで「本能寺の変」の後、いち早く明智光秀を倒し、天下統一を果たすことができました。

秀吉は、対面でのコミュニケーション力が高く、「人たらし」といわれますが、実は文章の達人でもありました。
秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)を務めた学者の大村由己(おおむら・ゆうこ)が、『関白任官記』の中で秀吉を、「不肖にして、文書を学ばざること悔ゆ。唯今儒者を招きて数巻の古伝、諸家の系図等これを学問し、悪を捨て善を用うること多し」と書いたことから、秀吉は読み書きができなかったと思い込んでいる人もいますが、文中の「文書」とは儒学をはじめ漢籍の素養のことです。
儒学者・軍学者である小瀬甫庵(おぜ・ほあん)が書いた『太閤記』によると、読み書きについて、秀吉は8歳の時に尾張中村(現・愛知県名古屋市中村区)の光明寺に入れられ、寺を追放されてからは商家へ奉公に出たとあり、一通りの手習いや算術は身に付けていました。
むしろ秀吉は筆まめでしたが、後世に残った自筆書状は、ほとんどが仮名書きのものでした。

私文書でも公文書でも彼は、「ちくせん」(筑前)、「てんか」(天下)、「大かう」(太閤)といった署名をしています。しかも自己流で、「是非」が「せし(ぜし)」、「同じ事」を「うなじ事」といい、その文章には俗語や方言が、飛び交うように入り交じっていました。
たまに漢字も見えるのですが、ほとんどがいい加減な当て字ばかり。「御膳」を「五せん」、「奥州」を「大しゅ」、「代官」を「大くわん」、「大納言」を「大なんご」などとしています。
さらに秀吉は、何を勘違いしたのか、自分に対して盛んに敬語を使っており、自分が許すことを「御ゆるし」と書き、自分が思ったことを「おぼしめし候」と述べ、署名も「てんかさま」と、敬語の使い方に頓着のない記述を、恥じらう様子もなく使用しています。
一見、軽薄と無教養に思われますが、これが秀吉の「文章術」だったのです。

文章レベル自体は、読み書きができる最低限のものでしたが、このいい加減な書き方に、彼は情感をたっぷり乗せて、人々を魅了したのでした。


なぜ秀吉は積極的に手紙を活用したのか?

文章で人の心をつかむには、「相手目線で書くこと」が重要である。

それは、秀吉の文章を読んでも感じます。彼の文章は、「相手を感動させる」というテーマを外すことなく、実に優れていました。
秀吉としては、「自分は成り上がり者で、武芸に長じているわけではない。いざという時に助けてくれるのは、培ってきた人脈だけだ」との思いもありました。

だからこそ、対面のコミュニケーションを重視する一方で、人脈を維持するために積極的に手紙を書き、コミュニケーションを取り続けたのです。
一例を紹介しましょう。
次に示す手紙は、「天下布武」に王手のかかった主君・信長が、京都で華々しく実施した、馬揃え」に出場できなかった秀吉が、信長の側近である長谷川秀一(ひでかず)に宛てた、「詫び状兼感謝の手紙」です。

現代語訳でお読みください。

「馬揃えの壮大さを聞いて、驚きました。それだけの儀式に参加できなくて無念で仕方がありません。せめて、参列者の仕立てを教えてください。私も、城の普請がようやく出来上がってきました。そのうちお目にかかれます。その節は、よろしくお願いします」

天正9(1581)年2月28日、信長は京都で、第106代正親町〈おおぎまち〉天皇の前で、一世一代の大デモンストレーションを行いました。「馬揃え」とは、現代風にいえば軍事パレードのことです。
この織田家のビッグイベントに、秀吉は中国攻めのさなかであるうえに、姫路城の改築中で、出場できませんでした。そのことについて、信長の側近である長谷川に手紙で謝意を伝えているのです。

信長本人や、筆頭家老の柴田勝家に詫びるのならわかりますが、側近にまで手紙を出すというのは、なかなかできることではありません。この長谷川秀一という人物は、父親も織田家に仕えた武士で、本人は信長の小姓から出世し、つねに信長の側に控えて、隠然たる影響力を持っていました。現代の会社にたとえるなら、社長に長く仕えた秘書といえるでしょうか。

とはいえ、ランクからいえば、織田家の方面軍司令官=最高幹部の一人である秀吉とは、比べるべくもありません。
しかし、紹介したように秀吉は、長谷川に丁重な手紙を送っています。

秀吉は長谷川を通じて、自らの近況が信長に伝えられることも、もちろん計算しています。と同時に秀吉は、身分にかかわらず、日頃からネットワークを大事にしていたことも明らかでしょう。


「あなたのおかげで私がいる」

秀吉は長谷川をはじめとする側近に、頻繁に手紙を送り、さまざまな品物も贈っていました。

秀吉のメッセージは明確です。
いつもありがとうございます。あなたのおかげで、今の私がいるのです
身分が上の秀吉から何度もこういわれれば、長谷川としても「羽柴(秀吉)さんは本気でそう思ってくれている」と感じたでしょう。繰り返し手紙を書くことは、「心にもないことを言っている」という風に見られなくすることでもあるのです。
秀吉は苦労して成り上がってきた人物なので、他人に嫌われること、嫉妬されることの恐ろしさを知っていました。

長谷川を「単なる信長の取り巻きの一人」と軽んじていれば、いつか自分の足元をすくわれることがあるかもしれない、と秀吉は警戒していたのでしょう。
実際、主君の信長に対して、秀吉にとってはあまり芳しくない報告をしなければならない時も、長谷川にはあったでしょう。とくに悪意がなくても、信長の機嫌が悪い時に長谷川が報告をしたら、信長の怒りを買う可能性は大きくなります。怒ると何を言い出すかわからない一面を持つ主君ですから、取り返しのつかない事態にもなりかねません。
しかし、側近衆と普段から良好な関係を築いていれば、彼らも秀吉の案件は慎重に報告してくれたはずです。

実際、秀吉が信長の逆鱗に触れることが少なかったのは、側近に手紙を送り続けた効能といえるでしょう。
こうした秀吉の努力が具体的に報われたのが、長谷川が御検使(ごけんし)として、中国攻めの最中の秀吉の陣を訪れたときのことです。御検使とは、戦場における「軍監」「お目付け役」と同様の権限を持っています。
長谷川は三木城を攻める織田家中国方面軍の様子を見聞して、信長に報告しました。

天正6(1578)年のことです。実は、この三木城攻めは約2年かかり、戦国時代の城攻めにおける長期戦として有名ですが、秀吉は城を取り囲み、兵糧を完全に断って、ようやく落城させることに成功しました。
合戦上手の秀吉ですら、それほど手こずったのですが、この間、短気なイメージも強いあの信長が、「いつまでかかっているんだ」と激怒することなく、珍しくじっと待っていました。その裏には、長谷川の秀吉に対する好意的な報告があったのです。
秀吉は戦略的に城攻めをしており、いずれ必ず落城させるだろう、と具体的な証拠を列記しました。

長谷川の好意的な報告がなければ、秀吉は中国攻めの方面軍司令官を解任されていたかもしれません。


秀吉の文章術は現在でも通じる

この長谷川が、秀吉に貢献してくれた決定的な場面があります。

それが冒頭でも少し触れた本能寺の変です。この一大事を、いち早く秀吉に手紙で伝えたのが長谷川でした。

主君の信長が明智光秀に討たれた折、長谷川は堺見物に出た徳川家康の一行をもてなすため、信長の許を離れていました。ゆえに彼は命拾いをしたのですが、この第一報を、誰に急送するか。運命を分けたのは、秀吉の日頃からの交際でした。もし、この急報がなければ、秀吉は天下を取れなかった可能性もあるのです。
秀吉は、手紙で相手を褒め、時には自虐やユーモアも入れて、読んだ人間が喜び、心に残るように、考え抜いて書きました。受け取った人は、「ああ、この人は自分のことをわかってくれているな」と思うと、心が動き、初めて感動が生じるのです。
この秀吉の文章術は、現在でも通じるでしょう。

現代人は日々、大量のメールをやりとりしていますが、その中に、人の心に残る文章フレーズがどれだけあるでしょうか。一方的に、こちらの意思を伝えるだけの内容になっていないでしょうか。あらためて振り返りたいものですね。




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