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「整理・整頓」にこだわる感覚が"要注意"なワケ


ベストセラー作家の散らかり放題な仕事場

森 博嗣 : 小説家、工学博士
2019年11月10日

整理・整頓は必要だが、それが仕事の成果に必ずしも直結することではない。その理由とは?(写真:CasarsaGuru/iStock)

『すべてがFになる』『スカイ・クロラ』など多くのベストセラーで知られる作家・森博嗣氏。工学博士の肩書も持つ理系作家ならではの研ぎ澄まされた文体や洗練された作風から、スマートな環境で淡々と作品を生み出しているイメージがありますが、活動場所は意外にも工具やガラクタで散らかり放題だそうです。
きれいに片づけたほうが仕事の効率も上がるように思いますが、『アンチ整理術』の著者でもある森氏は、「整理して面白いか?」と疑問を投げかけます。


*整理に必要なのは区別

片づけには、整理・整頓的な片づけと、掃除的な片づけがある。

前者は、ものが置かれている位置を管理することであり、後者は、不要なものを取り除くことである。

ここでは、後者については書かない。それは、各自が自分が要求するレベル、あるいは許容するレベルで行ってもらえばいいことだ。
ものを整理・整頓するには、区別をつけることが条件となる。

何と何が同じ区分に入り、それに類似したものは何か、といった「区別」が自分なりにできている必要がある。

「区別」は、名前で分類するものから、用途や、時間、あるいは大きさや色、価格などの性質で分けるものまでさまざまだ。
1例を挙げる。僕の工作室で、整理・整頓が必要なものとして真っ先に思いつくのは、ネジである。

工作や修理をするとき、ネジが頻繁に必要になる。ネジはその径、長さ、ピッチ、頭の形状、材質などで区別される。よく使うものだけに限っても、これらの組み合わせは膨大な量になる。

それぞれを使い分けるので、いつでも欲しいものが取り出せるように、区分した場所に収納しておく必要がある。
また、区分して保管しておけば、あるネジを使うごとに、同じネジの残りがいくつくらいあるかを見ることになるから、補給をするタイミングも外すことがない。
使用頻度が高い材料や工具は、手近に置きたい。使用頻度が下がるほど、遠くてもよいが、できるだけ、探すことがないようにしたい。かといって、スペースは限られているし、材料も工具も増える一方である。
僕の経験では、滅多に使わないものの収納が最も難しい。場合によっては、数年に一度しか用いないものがある。

しかし、必要になったときには、それがなければ作業ができない、ほかのもので代用できない、というものである。

万が一見つからなければ、買い直すしかない。安いものならば、それでもいいが、もちろんそうでないものも多い。
ものが多くなってくると、何がどこに仕舞われているのかを忘れてしまうだろう。

人間の記憶能力など知れている。かといって、逐一それらの記録やリストを書き換えていたら面倒だ。

そのリストが見つからなくなるかもしれない。
将来、自分が探すときのことを想像し、見つけやすいようにしておく工夫が必要になる。

箱に入れれば積み重ねられるから、狭い場所により多く収納できるが、中が見えなくなる。

そこで、透明の箱にしたり、中身が何かというラベルをつけるなど、それぞれの場所で工夫されていることと思う。
区分して収納する場合、どんなものがどれくらいの量があるのか把握している必要があるから、ある程度、その作業場で行われる工程や、使われる材料を知っている人でなければできない。
まったくの初心者には無理な話だ。

ベテランになるほど、整理の仕方も洗練されてくるだろう。ただ、同じ作業をずっと繰り返している場合はそうかもしれないが、作業自体が、時代とともに推移する。個人の趣味でやっていることも、だんだん嗜好が変わってくるだろう。同じ整理法では、続けられない場合も出てくるはずだ。

 

*ストックとアイデア

整理ではないが、僕は「ストック」をたくさんしている。つまり「備蓄」である。
工作室でストックしているものは、先ほど例に挙げたネジが筆頭だろう。ただし、最近では、ネットで注文すれば翌日にも指定のネジが届くようになった。こうなると、本当にストックしておく必要があるのだろうか、と考えざるをえない。
僕の工作というのは、設計図をしっかりと描いて、それに従って作るという方式ではない。

手近にあるものを眺めているうちに、いろいろ思いついて、そこにあるものを活用して作ってしまう。

だから、工作室は、ものすごい量のガラクタであふれ返っている。そんなガラクタを眺めること自体が楽しい。

なにかに使えないか、どんなものに生かせるか、という発想こそが、工作の起点となっているのだ。
設計図を描いて、しっかりと計画したうえで製作をするタイプの人は、必要なものだけ買いにいけばいい。

自宅に大量の材料をストックする必要がない。このタイプであれば、断捨離も可能だろう。

このような製作が、一般の工場では常識であり、通常の工業製品はすべてこういったシステムで作られているはずだ。
ただ、まったく新しいものを生み出そうというときには、試行錯誤が必要であり、設計図を最初にすべて描くことはできない。簡単な設計をし、試作品を作ってみて、また設計図を直し、という繰り返しが必要になる。「開発」と呼ばれる段階もこれだと思われる。

 

*整理して面白いか?

ものがきちんと整理された環境は、確かに気持ちのいいもので、そういった場所での作業も、当然ながら気持ちよく進むだろう。

僕も、工作室をたまに片づけるが、片づくとスペースが広くなって、のびのびと作業ができる。精神衛生上は良好だ。
それでも、本当にこれが必要だろうか、と自問すると、曖昧な返事しかできない。

気持ちがいいだけかもしれないからだ。

これまで、面白い経験ができたとき、すばらしい思いつきがあったとき、納得のいくものができたときには、だいたいいつも散らかっていたように思うのだ。

整理・整頓されたきれいな環境が必ずしも結果に結びつかないように、どうしても思えてしまう。
このことで、1つ思い出がある。

僕がまだ34歳のとき、8歳になった息子に初めてプラモデルの作り方を教えた。彼が欲しいといったプラモデルだし、自分で作れるかどうかもわからない。最初なので、基本的なことを指導しようと考えた。
まず、袋からパーツを出して、1つパーツを切り離したら、残りはまた袋へ戻す。

1つずつ説明書のとおりに進める。

散らかさないこと。そうしないと、パーツがなくなることがある。そんな基本的なことだった。
そのとき、息子は神妙な顔つきで聞いていたし、その後、自分で作り始めた。

僕は彼のそばを離れ、自分のデスクに戻った。別に、普通の親子の風景である。
だが、ここで僕は考えた。自分はものすごくせっかちだったから、パーツを全部最初に切り離したりした。

いちいち袋に戻したりしなかった。部品が足りなくなって、探し回ったことも何度かある。

散らかった場所でやっていたから、ゴミと紛れてしまうことも多かった。そんな失敗ばかりしていたのだ。
だから、息子にはその失敗をさせないように、と大人のアドバイスをしたつもりだった。

けれど、どうだろうか? そんな几帳面な作り方をして、面白いだろうか?と思い至ったのだ。

 

*やり方を押しつけない

自分は無心に作っていた。周りのことが見えなくて、失敗を何度もした。でも、作っている最中は本当に楽しかった。だから、この歳になった今も工作をし続けているのだ。

いちばん大事なことは、片づけて、部品をなくさないことではない。
このとき、自分が息子にした指導に僕は後悔した。反省もした。

若者に、こういったアドバイスをすることは、彼らの楽しみを半減させる可能性がある。
もちろん、ケガをしないようにとか、換気をするようにとか、そういった危険を避ける方法は指導しなければならないが、少々散らかることくらい、どうだっていいのではないか。

もっと自由にさせてこそ、楽しみが味わえるはずだ、と思ったのだ。
こんなこともあって、それ以来、同じようなことは言わないようにした。

また、子どもたちの部屋がいくら散らかっていても、文句を言わないことにした。これは、大学の研究室でも同じだ。学生、院生、あるいは後輩などにも口出しをしない。

自分の部屋は、自分が片づけたいときに片づける。それで十分だろう。
確認のために書いておくが、整理・整頓をする行為を否定しているのではない。その反対である。

その行為には意義が認められる。

これは掃除も同じだ。きれいな環境を目指して作業をする行為自体が、癒やしになる。落ち着ける。
だが、その結果になにかを期待しないことが大事だと思う。

整理され、きれいになった環境から、すばらしいものが生まれる保証はない。

そういうことで、仕事が画期的にうまくいくことは、まずないということである。


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