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すべては野望を成し遂げるため。織田信長「大減税」政策に学べ


2019.10.03

近年覆されつつあるとは言え、織田信長といえば「暴君」というイメージで語られがちですが、「税制」や「物流」の面ではかなりの名君ぶりを発揮していたようです。

元国税調査官で作家の大村大次郎さんは、信長が戦国時代に強敵たちを圧倒できた秘訣を紹介。

 

信長の大減税政策

今回はちょっと毛色を変えて、「織田信長と税金」の話です。

あまり語られることはありませんが、実は、信長は領民に対して「大減税」を施しているのです。

信長というと、強権的で高圧的な人というイメージが強いので、「領国統治も過酷なものだったのではないか」「信長の天下になれば、領民は重い負担を強いられたのではないか」と思われがちです。しかし意外に思われるかもしれませんが、信長というのは、庶民に対しては非常に善政を行なったといえます。

それはよく考えれば当然のことだともいえます。
信長は常に周囲の勢力と戦いながら版図を急激に広げていきました。それは自国領が安定していなければできないことです。自国領で一揆などが多発していれば、うかうか他国と戦ったりはできません。

領民の支持を得られなければ、領民に抵抗されたり逃亡されたりして、スムーズな領土拡大ができないのです。
逆に領民が潤えば人口が増え、領内が発展すれば税収も増えます。それは国力増強につながります。

信長が天下統一事業を急速に進められたのは、自国の統治が他の大名に比べてうまくいっていたからに他ならないのです。信長は税のシステムを簡略にして、中間搾取を極力減らし農民の負担を大幅に軽減しました。

戦国時代の農民の税負担というのは、けっこう大きいものがありました。室町時代後半から戦国時代にかけての年貢は、複雑な仕組みとなっていました。
当時、日本の農地の大部分は荘園となっていましたが、本来、荘園というのは荘園領主が持ち主です。

荘園領主というのは、自分の領地から遠く離れて住んでいることが多く、実際の管理は荘官や地頭に任されていました。そのうち荘官や地頭の力が強くなり、彼らが実質的な領主になっていったのです。

そうなると、どういうことが起きるでしょうか?本来の荘園領と、荘官や地頭が「二重」に税を取るような事態になるのです。

「二重」とまではいかずとも、税の仕組みが複雑になり、農民は余計な税負担を強いられることが多々あったのです。つまり、中間搾取が増えていったのです。これは、国家体制にも似たようなことがいえます。

室町幕府は、各地に守護を置いていました。守護というのは、本来、中央政府から任命された一役人にすぎませんでした。それが、中央政府が弱体化すると力をつけていき、実質的にその地域を治めるようになっていったのです。

それが守護大名と言われるものです。

さらにその守護大名の力が弱くなって、その地位を奪うものがでてきます。戦国大名の出現です。
これも、農民にとって負担が増えることになりました。農民は荘官に年貢を払うだけでなく、守護にも「段銭」という形で税を取られるようになったのです。

また新興勢力である「加地子名主」にも、事実上の年貢を納めなくてはならなくなっていました。

「加地子名主」というのは、もともとは農民だった者が力をつけて地主的な存在になったもののことです。

このように戦国時代では社会のシステムが崩壊し、力の強いものがどんどん収奪するようになっていたのです。

戦国大名は、この社会システムを再構築する必要に迫られていました。今のままでは、農民は幾重にも税を払わなければならないため民力を圧迫してしまいます。また大名の年貢の取り分も非常に低くなっています。

分散した年貢徴収システムを一括にまとめること、それが戦国大名にとっての大命題だったのです。
しかし多くの戦国大名はそれができませんでした。

たとえば、武田信玄は、寺社や国人などの徴税権をそのままにしておいたので、自身の取り分が少なくなり農民に過酷な税を課すことになりました。それは農民の大量流出などを招き、領内経済を疲弊させました。

信長はそうではありませんでした。

自分の支配地からは、極力、中間搾取を排除し税体系を再構築ることに成功しているのです。

 

年貢が安かった信長領

信長は具体的にどのような税制を採っていたのかを見てみましょう。

天正10(1582)年3月、信長は、武田勝頼を滅ぼして甲斐、信濃を手に入れました。甲斐、信濃は、河尻秀隆や森勝蔵、森欄丸の兄弟らに与えられます。

信長は、このとき甲斐、信濃の両国に対して、国の基本政策というような法令を発しました。

信長はこの法令の最初に関所での徴税を禁止し、二番目で百姓への過度な年貢を戒めています。

実はここが信長の施策の真骨頂ではないか、と筆者は考えます。

前述しましたように、当時の農民は、領主だけではなく、近隣の有力者などに何重にも税を取られていることがありました。信長はそれを禁止し、農民には原則として年貢のほかには、重い税を課してはならないとしたのです。

武田信玄などは、農民に年貢のほかに、多額の「棟別銭」を課していました。

棟別銭というのは、家一個あたりにかけられる税のことです。そのため農民たちは、過度な負担に苦しむことになったのです。
では信長は、年貢をどの程度、課していたのでしょうか?

信長領全体における年貢率というのは、明確な記録は残っていません。が、永禄11(1568)年、近江の六角氏領を新たに領有したときに、収穫高の3分の1を年貢とするように定めています。この地域だけ特別に税を安くするはずはないので、信長領全体もだいたいこの数値の前後だったと考えられます。

収穫高の3分の1というのは、かなり少ないといえます。

江戸時代の年貢は、5公5民、4公6民などと言われ、収穫高の4割から5割が年貢として取られていました。

また戦国時代は戦時だったので、江戸時代よりも年貢は重かったとされています。だから信長領の年貢率3割というのは、かなり安かったと考えられます。


関所の廃止を断行し、物流を活性化させた

信長は新しく領地を占領するごとに、その地域にある関所を撤廃してきました。

これは当時としては画期的なことでした。戦国時代、関所の数は半端なく多かったのです。

この関所の存在が、当時の日本の物流を大きく妨げていたのです。

各関所では「津料」「駄の口」と呼ばれる通行料(税)が取られました。

「駄の口」というのは、牛馬や積み荷に課される税金です。つまりは、物流税ということになります。
これが課せられると、人は牛や馬をあまり使えなくなるので、交易される物の量が減るし、運送のスピードも遅くなります。

当時は、荘園が各地に入り組んでおり、荘園の地主が勝手に関所を作ったものですから、関所の数が非常に多かったのです。公家、武家、寺社、土豪などが、私的に関所を作っており、その数は膨大になっていました。

たとえば、寛正3(1462)年、淀川河口から京都までの間には380カ所の関所がありました。

また同時期、伊勢の桑名から日永までに60以上の関所がありました。もちろんこれらの多数の関所は当然、人や物の流通を大きく阻害するものでした。

戦国時代の京都は関所のために寂れたともいわれています。
地域の豪族たちにとって、「津料」「駄の口」は重要な収入源となっていました

。それは、地域の武装勢力を肥やすことになり、戦国の世の治安の悪さにもつながったのです。

信長が関所を撤廃したということは、それらの弊害を一気に消滅させる狙いがあったわけです。
関所の撤廃は、戦国大名にとって命題の一つでした。

関所というのは、戦国大名たちにはほとんどメリットはないのです。

「津料」「駄の口」の多くは、その地域の豪族、有力者などが勝手に課しているものであり、戦国大名には入ってこないのです。もちろん、戦国大名が自らつくった関所では、「津料」「駄の口」を自分がもらうことができます。

しかし、当時、開設されていた関所のほとんどは、大名たちの管轄ではなかったのです。
そのため戦国大名たちは、躍起になって関所を廃止しようと試みました。

しかし地域の豪族、有力者などを力づくで抑えるということはなかなかできにくく、関所の廃止は不完全なものでした。
しかし信長は、関所に関しては有無を言わさず廃止してしまったのです。

こういう“毅然とした姿勢”が信長の特徴でもあります。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの報告書には、次のように述べられています。
「彼の統治前には道路において高い税を課し、1レグワごとにこれを納めさせたが、彼は一切免除し税をまったく払わさせなかったので、一般人民の心を収攬した」

また信長公記では、「これによって旅につきものの苦労を忘れ、それに牛馬の助けを借りるといっそう楽になり、人びとは安心して往き来をし、交流が多くなったので、庶民の生活は安定に向かい『ありがたいご時世、御奉行様よ』とだれもがもろ手をあげて感謝する次第であった」と記されています(「信長公記」原本現代文訳・榊山潤訳)。

 

全国の道路網整備

信長は、関所を廃止するだけではなく、大掛かりな道路整備も行ないました。

今も全国に残っている一里塚というのは、信長が道路の整備を行い、距離の目安として一里ごとに塚をつくらせたものなのです。また現在の街道などには、信長の道路整備で開通されたものが多々あるのです。

信長の道路整備により、人や物が諸国を自由に行き来できるようになり、流通は格段に発展したと思われます。
信長は道路網整備のために、大掛かりな掘削工事も行っています。

天正元(1573)年、信長は琵琶湖のほとりに佐和山城の築城を開始しました。中山道も従来のルートから変更し、佐和山城の前を通るようにし、佐和山城の前には、鳥居本宿という宿を置くことにしたのです。

ところが、佐和山城ルートにする場合、摺針峠を越えなければなりません。そのため信長は、摺針峠を開削して道を作りました。火で岩を膨張させて、岩を砕くなどの難工事でした。この工事では3万人が動員されたそうです。この佐和山城ルートにより、中山道は従来よりも3里、12キロも短縮されました。
もちろん信長がもし本能寺で死なずに、天下統一を完遂できていれば、この道路網は日本全土に張り巡らされたはずです。というより信長のこの計画を家康が踏襲し、江戸時代の整備された街道が生まれたのです。



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