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ソ連がAIを駆使したなら

2019年10月11日

新井紀子のメディア私評@朝日新聞デジタル

 

 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビュー「AIが支配する世界」(9月21日付本紙オピニオン面)を読んだ。
 歴史に「もしも」は禁物だ。だが、その禁をあえて犯してみたい。もし、1989年にベルリンの壁が崩壊せず、91年にソ連が踏みとどまり、今日のAI時代を迎えていたなら、どうなっていただろう、と。
 ハラリ氏は、ソ連の計画経済が失敗したのは、20世紀の技術では膨大な情報を中央政府が迅速に処理できず、需給バランスを巧(うま)く調整できなかったから、と指摘する。

当時は、各個人が市場経済で自己の利益を追求する「見えざる手」(アダム・スミス)を信頼する方が、最適解に達しやすかった。
 一方で、「見えざる手」は公害などの外部不経済も生んだ。地球規模の環境変化は深刻だ。

SDGsが叫ばれ、国連やG20等で議題に上り続け、紙面を賑(にぎ)わしてはいるが、解決される希望を私たちは持てずにいる。

「国際協調」などという「民主的」で生ぬるい方法では、直面する大きすぎる課題に対応できないのではないか、と。東京オリンピックや大阪万博の頃、「世界」という言葉には、高揚感を誘う夢の響きがあった。それだけ「世界」にリアリティーがなく、地球は大きかった。

しかし、「見えざる手」に導かれて、人とモノが地球を高速かつ大規模に移動しながら自己の利益を追求した結果、海はマイクロプラスチックで溢(あふ)れかえり、アフリカ豚コレラは蔓延した。素朴に考えたほどには、地球は大きくなかったのである。
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 そこで、もしも、だ。ソ連が残り、現在のインターネットよりも中央集権的なネットワークを設計し、あらゆるものにセンサーをつけ情報をAIが理解できる形式で合理的に集め、21世紀初頭からデータサイエンスを高度化していたら、どうなっていただろうと。
 実は、現在のAIの基盤である確率・統計の理論の多くがソ連発だ。コルモゴロフ、ヒンチンなどキラ星のごとく名前が並ぶ。

これほど確率・統計学者が多いのは、計画経済を合理的に進めるための関心の高さゆえかもしれない。

適切な刺激を与えることで特定の行動を導く「パブロフの犬」の実験で知られるパブロフも、行動主義心理学に大きな影響を与えた。

それらの理論は、現代の巨大テック企業のサービスの礎になっている。
 その結果、ソ連を中心とした東側諸国は、経済的に西側諸国を圧倒していたかもしれない。

なにしろ、ソ連では西側と違って「人の配置の最適化」も厭(いと)わない。だからオリンピックも数学も強かった。

子どもの行動や発達を生まれたときからモニタリングし、どんな職業に就かせるのが最適かを計算し、配置したことだろう。その徹底を前にしたら、リクルートの内定辞退率予測どころでなく、グーグルのアルゴリズムですらトイ(玩具のようなプログラム)に見えていたかもしれない。

 加えて、ソ連には、科学リテラシーに欠ける人物が、単に人気取りで大統領や首相に就くリスクがある民主的な選挙は、ない。

ソ連だけでなく究極的には世界中の人々を、平等に「幸せ」にするために、データサイエンスを、計画に基づき、段階的に正しく使いこなすことができる最も有能な人物が党大会で選出されるのである。それは現グーグルの最高経営責任者であるピチャイのような人物かもしれない。
 そのとき、東側陣営は西側の敗北を見下してこう言っただろうか。

「各人の自由な利益追求を野放しにすることで最適解にたどり着けるなど、『脳内お花畑』な資本主義は格差を拡大し、地球を危機に陥れた。

次々とポピュリストが登場し、汚い言葉で罵(ののし)り合っている。知的な政治からは程遠い」と。
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 この「もしも話」の意味は何か。
 一つは、AI技術が目指していること――あらゆるデータを収集することで未来を予測するという誘惑――は、葬り去られたはずの全体主義、計画経済のそれと驚くほど似ているということだ。自由の旗を掲げるシリコンバレーがその発祥の地であるのは皮肉だ。
 もう一つは、「幸せ」のような質に関わることを、数字という量に換算できると考えることの危険性だ。

かつて、蓮實重彦元東大総長は入学式の式辞で、学問研究の「質の評価を数で行うというのは、哲学的な誤り」と批判した。

質を数字に置き換え、数学を用いて分析しなければ、近代科学にはならない。

近代科学によりテクノロジーは発展したし、社会の矛盾は可視化された。数値化と数学には効用がある。

だが、それは手段に過ぎない。手段が目的化したとき、私たちは再び全体主義の足音を聞くことになるだろう


 ■ランキングの指標も
 アメリカ人の友人から嘆きのメールが届いた。大学に進学した息子の授業料が年5万2千ドル(約550万円)だという。日本の国立大学の標準授業料は年間約54万円。ざっと10倍だ。

 彼が進学した大学は、英誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」が毎秋発表する「世界大学ランキング(THE)」の上位校。論文の被引用数や留学生比率など「多様な」指標で大学を比較するが、なぜか授業料は考慮しない。
 昨年の本紙「私の視点」で、安部憲明氏(現外務省企画官)は「ランキングの多くは統計家が処理した『作品』」に過ぎず、「客観中立を装う数字の背後には、統計家や組織の、主張を証明したいという動機が潜」んでいるとした。

THEも、一商業誌による作品に過ぎない。それに一喜一憂するメディアは「数値化全体主義」にとって都合のよい幇間(ほうかん)といったところか。



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