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名著『葉隠』の真意


「武士道とは死ぬこととみつけたり」ではない名著『葉隠』の真意

  「武士道とは死ぬこととみつけたり」で有名な『葉隠』は、徐福伝説が残る山の麓で、山本常朝の言葉を田代陣基が書き記すことによって生まれました。武士道の真髄という面ばかりが強調されがちですが、その奥にはもっと普遍的な価値観や美意識を読み取れるようです。  

童門先生が語る『葉隠』入門

  「武士道とは死ぬこととみつけたり
山本常朝の『葉隠』と言えば、やはりこの一文が思い浮かぶかと思います。
しかし、童門先生は『葉隠』は必ずしも、武士道精神を説くものではないとしています。
それはまるで「秘めた恋のように…」と語る童門先生の真意はどこにあるのでしょうか。
 

新代表的日本人 童門冬二(作家)

日本には古くから“徐福伝説”というのがある。秦の始皇帝が徐福に、「不老不死の霊草を探してこい」と命じた。

徐福は日本に渡り、霊草を探し回った。そしてついに中国には帰らず、日本で死んだ。徐福が訪ねたという地域が何ヶ所かある。そのひとつが、佐賀県の金立山だ。この山に金立社本宮という社があり、三柱の祭神がまつられている。

穀物の神と水の神と、そして徐福だ。

徐福は金立山で不老不死の霊草を手に入れていたが、中国には帰りたくなかった。つまりかれがこの霊草によって、不老不死の境遇を送りたかったのである。同時にこの地域の日本人が非常に親切だった。そこで、このことが始皇帝に知られるとむりやり連れ戻されるので、そのことを思うたびに涙を流した。この涙が、天から雨を降らせた。そこで地域の人々は、徐福を干魅の時に雨を降らせる神としてまつったのである。現在もかれの祭りが行われている。

この金立山の麓に、元禄13(1700)年からひとりの武士が住んだ。武士の名は山本常朝(じょうちょう)といった。
かれは正徳3(1713)年までの足掛け14年間ここに草庵をつくって住んでいたが、やがて大和町春日大小隈(現・礫石)に移った。山本常朝は佐賀藩の武士で、神右衛門常朝といった。しかし金立山の麓に住んだ時は落髪して、法号を旭山常朝と号していた。この常朝を、宝永7(1710)年3月5日に訪ねてきた武士がいた。佐賀藩士で田代陣基(つらもと)といった。

 常朝を訪ねた時、田代はうれしさのあまり俳句を詠んだ。

   しら雲やただ今花に尋ね合ひ

これに対し常朝は、

  浮世から何里あろうか山桜 と詠んだ。 二人とも詩精神を持った武士であった。

田代陣基はその後足掛け7年、常朝の草庵を訪ね続ける。そして常朝からきいたことを1冊の本にまとめた。

これが葉隠である。

常朝が折々語ったことを田代がまとめたので、葉隠はまたの名を『葉隠聞書(ぶんしょ/ききがき)』といわれる。
つまり葉隠は、常朝が書いたものではなく、あくまでも田代が  “ききがき” としてまとめたものである。
昔はその本のモチーフを、はじめの方に書かれていた文章から取って、「武士道とは死ぬこととみつけたり」という一文だけが強調された。そのため、「葉隠は、日本の武士道精神の真髄である」といわれ、戦争中はとくにこの面が強調された。

しかし葉隠は必ずしもそういう本ではない。むしろ、武士の日常の心構えを説いたものである。

とくにこの本で強調しているのは、主人に対する忠をはじめ、人間のまごころは、やたらに口に出して吹聴するものではない。
ちょうど、男女の仲でも本当の恋は、自分の胸にジッと秘めて相手にも告げないほど忍ぶことが大切だ。

主人に対する忠も、自分は忠だ、このようにあなたに尽していますなどということを決して口に出すべきではない。

秘めた恋のように、胸のうちに秘めて尽し抜いてこそ、本当の忠といえるのだ。
ということが主題になっている。
もっと拡げて考えれば、常朝がいいたかったのは、「人間のまごころとは、口に出さぬものなのだ」ということであろう。
だから葉隠が告げていることは、「武士道とは死ぬこととみつけたり」ということよりもむしろ、「まごころとは口に出さぬものなり」という意味に取るべきではなかろうか。


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