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本来無一物


中国禅宗では、インドの禅定を伝えた初祖達磨から六祖慧能まで、その教えは一子相伝で伝承されてきた。

菩提達磨-神光慧可-鑑智僧璨-大醫道信(四祖)-大満弘忍(五祖)  ☞  https://ja.wikipedia.org/wiki/禅
六祖を決める際、こんな逸話が残されている。
五祖弘忍には、弟子筆頭の神秀(エリート)、その弟弟子の慧能(下働きから出家)という優れた2人がいた。

 ☞ 神秀は修行を通じて徐々に悟得する「漸悟」を規範としたのに対して、慧能は一足飛びに悟得する「頓悟」を

         旨とする違いはあったが、ともに禅宗の布教に尽力した。
五祖弘忍は、後継者を決めるため、この二人の門人に悟りの心境を詠った詩をつくらせた。
神秀は、「悟りの境地とは鏡のようなもの。煩悩という塵がつくと曇ってしまうので、常に修行をして清めねばならないと詠い、

慧能はそれを見た後で、「本来無一物なのだから、鏡が汚れることさえないだろう」と詠いました。

神秀は、悟りと煩悩(迷い)を分けたが、その区別が逆に自らの自由を奪ってしまう。
一方、慧能が示した"本来無一物(ほんらいむいちもつ)"とは、「本来、一切のものは無(空)であるから、この世に執着すべきものは一つもなく、一切のものから自由自在になる」という意味、つまり、たとえ「悟り」であっても、それに執着すると、陽の光が影を生むように煩悩が生まれ、それが迷いや苦しみを生じさせる。


 ☞ こだわりを捨てれば、いつでも「自由」でいられるということです。

  これを日常で実践することで、自分の心を自由自在にする!!

  おがわの音 の出発点である「非まじめのすすめ」。

  著者である 森 政弘先生の本にも 慧能のお話しが出てきます。  cf. 下図