東京モーターショーに迫られる抜本的な改革


2019年開催に向け、今までどおりでいいのか 

森山 一雄 : 自動車ライター

20180823

世界有数の国際自動車ショーであるアメリカのデトロイトオートショーが、2020年から開催時期をこれまでの1月開催から6月開催へ移行することを決めた。もともとは家電ショーだった「CES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)に押されたことなど、背景は「あのデトロイトショーが6月開催に移る真相」821日配信)で解説したとおりだが、自動車ショーの地位低下はデトロイトオートショーの話だけではない。

 

「東京モーターショー」の来場者は減少傾向に

 デトロイト、ジュネーブ、パリ、フランクフルトと並んで「世界5大モーターショー」の一つに数えられる「東京モーターショー」。

ピークの1991年には来場者数が200万人に達したが、前回2017に東京・有明の東京ビッグサイトで開かれた第45回は、77万人まで減ってしまった。 10日間の会期、それも多くは業界関係者の集まるイベントということを考えると、同じビッグサイトで開催されるコミックマーケット、通称コミケは3日間で50万人以上を集める。コンテンツとしての自動車は、いまや集客力で漫画&アニメに勝てていない。 

そして今や、モーターショーは、世界の5大モーターショー以外にも、ボローニャ、ブリュッセル、ブカレスト、サンパウロ、イスタンブールなど、世界の主要都市でたいてい毎年か隔年の間隔で開催される。中国の北京、上海のモーターショーも今や世界中のメーカーやジャーナリストを引き寄せている。アジアの台頭も著しく、まだ中国には及ばないものの、インドのニューデリーショーや、インドネシアのジャカルタオートショーも、毎年、華やかさを増している。 

こうした競争激化とあいまって東京モーターショー没落のきっかけになった要因の一つは、2008年のリーマンショック

以降、見る間にその地位を低下させてしまった。日本市場の縮小と同時に起こった中国市場の勃興により、多くの海外メーカーが東京モーターショーへの出展を取りやめた。

2009年の東京モーターショーは、各メーカーが極端に経費を削った結果、照明も暗く、ショボいショーになってしまい、国際ショーというより、

日本ドメスティックのショーに成り下がった感は否めない。 

東京モーターショーの歴史

 そんな東京モーターショーの歴史を振り返ってみよう。 

日本の東京モーターショーは1954年に日比谷公園で始まった。1954(昭和29)年、太平洋戦争終結からたった9年のことである。

当時、ホンダは四輪生産の10年も前で、マツダもまだトラックしかつくっておらず、スバルも名車「てんとう虫」こと360量産前夜、スズキも軽乗用参入はまだで、わずかな台数ながらも国産乗用車を独自設計していたのはトヨタ自動車ぐらいだった。 

なにしろ戦後はGHQ1947年まで乗用車の生産を禁じていたので。1950年代に入ってからは、日野自動車がルノー、日産自動車がイギリスのオースティン、いすゞ自動車がイギリスのヒルマンを先方のライセンスで生産していた時代。

要するに外国メーカーの設計した車のライセンスを買って生産している今の中国と似たような状況だった。 

それを物語るように、初回の東京モーターショーは出品車267台のうち、乗用車はたったの17台だったそうだ。

多くはトラックか、オートバイ。それでも10日間の会期中にまだまだ交通の便が悪い中、54万人の来場者を集めたことには、当時の庶民にマグマのようにたまっていったモータリゼーションへの熱気を感じずにはいられない。 

5年後の1959年からは新設の晴海の東京国際見本市会場に移り、1989年からは総展示面積7万平方メートル強とはるかに面積が大きい(けど都心から遠い)千葉の幕張メッセに会場を移した。 

この時代はバブルで、販売台数は右肩上がり、日本メーカーは車種を増やし続けていた時期である。

ホンダはクリオ、ベルノ、プリモの3チャンネル制を敷き、マツダに至ってはマツダ店、アンフィニ店、ユーノス店、オートザム店とオートラマ店の5チャンネル制をやっていた頃だ。

 

1989年はエポックメーキングな年

 特に1989年は日本車の歴史にとってはエポックメーキングな年で、マツダからは世界中が虜になった小粋なオープンカーのユーノス・ロードスターが登場、トヨタがメルセデスを震撼させた高級車セルシオを投入し、日産がR32 スカイラインGT-Rを発売、フェラーリやマクラーレンのクルマづくりに影響を与えたNSXをホンダが発表したのも1989年だ。 

実に時代の転換期であった。日本人が、日本のクルマ好きが、誰しも日本車が世界に追いつき追い越した高揚感を感じ、自動車雑誌が書店で最も目立つ棚に並べられていた時代だ。 

東京モーターショーも大いに賑わいをみせ、1987年に130万人弱だった入場者は1989の第28回東京モーターショーでは192万人、続くバブル絶頂期の1991には初の、そして唯一の200万人声を達成した。

このときは会期も15日間と延長されたのだが、幕張に1日平均40万人が押し寄せる熱気がどんなものであったのか、今では想像するのも難しい。ちなみにリーマンショック直後の2009年の入場者数は61万人である。 

そんなふうに、クルマについて熱く語ることが普通であった時代が過ぎて、どれほどが経つだろう。

モーターショーとは、庶民が憧れのクルマをただ見るためだけに、わざわざ遠くの展示場まで出かけて、入場料を払い、混雑した人ごみの中に入っていくイベントなのである。いや、そうであった。 

東京モーターショーの主催者である自工会もあの手この手で海外メディアやメーカーの誘致に必死で取り組んで海外メディア向けイベントなどに取り組んでいるが、的外れな感じは否めない。2019年の次回開催に向けて今までどおりでいいのか。

デトロイトオートショーが100年以上も続いた伝統だった開催時期を従来とずらし、イベントのテイストも少し変えていくことを決めたように、抜本的な変革を迫られているように、筆者には思えてならない。


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