おがわの音♪ 第611版の配信


ブスと下衆が「枕草子」に出まくる深い事情

 清少納言がぶった切ったのは誰だったのか   

イザベラ・ディオニシオ : 翻訳家

 20180805

2005年に日本にやってきて以来、かれこれ13年の月日が過ぎ去ってしまった。

イタリアから共にやってきた真っ赤なスーツケースは20キロ――当時の私の体重のちょうど半分――で、気づかないうちに母が忍ばせておいてくれたスパゲッティを含め、全財産だった。

しかし、今や下駄箱を開けても、キッチンの収納スペースを開けても本が出てくるわが住まい。

「旅人は身軽なほど遠くまで行ける」というが、今の私には無理……と思っていたら、突然長期出張の

お達しが出た。滞在先は殺風景なマンスリーマンションだけれど、久々に旅気分を味わえる!と、同時に、ある悩みが浮上した。

こんなときは、どんな本を持っていくべきだろう……。  

 

お供に選んだのは『枕草子』 

結局、今回旅のお供に選んだのは、清姐さんの名言集、インスタ映えしそうな生活がきらびやかにつづられているオシャレバイブルこと、

『枕草子』。清姐さんの言葉という強力なフィルターにかけられたものはなんだって宝石のように潤沢で特別な輝きを放つ。

読み古したマイ『枕草子』のページをめくってみると、早速、殺風景な部屋に沈んでいる私に、1000年前からのエールが届いたような気分に……

 


春はあけぼの(第1段)
・ 春は明け方がいい
・ 少しずつ周囲が白くなってきて、山頂が明るくなり、紫がかった雲がたなびいている
さまはとてもいい


・ 夏は夜がいい
・ 月が出ていればなおよく、ホタルが飛び交っている様子も、雨が降るのも趣がある


・ 秋は夕暮れがいい
・ 夕暮れにカラスがねぐらに帰るさまや、夜の風の音、虫の音の美しさは趣がある


・ 冬は早朝がいい
・ 雪の降り積もった景色、霜で真っ白になる様子もすばらしい



(第43段)
・ 虫は鈴虫。ひぐらし。蝶。松虫。こおろぎ。きりぎりす。…
・ 親を呼ぶかのように、弱弱しく心細そうに鳴く様はなんともいじらしい
・ ハエは可愛げがない
・ わざわざ相手にするほどの大きさではないが、いろいろなものにとまって憎たらしい
・ 夏虫はたいへん可愛らしい
・ 読書をしていると、本の上に飛んできて歩いている様はおもしろい
うつくしきもの(第151段)
・ 可愛らしいもの
・ 瓜(うり)に書いた赤ん坊の顔
・ 小さい子供がちり紙を見つけて、可愛らしい指でつまんで大人に見せている様子
・ 幼児と遊んでいたら、そのまましがみついて寝てしまった様子
・ 鳥の雛が、ぴよぴよと人の側をついて歩いている様子
悪口(第255段)
・ 人の悪口を言っていると怒る人がいるけれど、困ったものだ
・ 悪口はどうしてもいいたくなってしまう
・ ただ、本人の耳に届くと恨まれることもあって、こちらも困ってしまう
・ 相手によっては悪口を我慢することもあるけれども、そうでなければ笑いものにしてしまうでしょう


『枕草子』の執筆動機等については巻末の跋文によって推量するほかなく、それによれば執筆の動機および命名の由来は、内大臣伊周が妹中宮定子と一条天皇に当時まだ高価だった料紙を献上した時、「帝の方は『史記』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の下問を受けた清少納言が、「にこそは侍らめ」(三巻本系による、なお能因本欠本は「枕にこそはし侍らめ」、能因本完本は「これ給いて枕にし侍らばや」、堺本と前田本には該当記事なし)と即答したので、「ではおまえに与えよう」とそのまま紙を下賜された…と記されている。「枕草子」の名もそこから来るというのが通説であるが、では肝心のとは何を意味するのかについては、古来より研究者の間で論争が続き、いまだに解決を見ない。 出典:ウィキペディア

女流作家「清少納言」の教養と知識の高さ

平安時代を代表する文化人に清少納言という女性がいます。
彼女が書いた「枕草子」は、「徒然草」、「方丈記」と並んで三代随筆のひとつに数えられていますね。
清少納言は、宮中で一条天皇の中宮・定子(ていし)に仕えた女性です。
彼女は宮中に仕えていたということから贅沢な暮らしをしていたと伝えられていたりもします。
そして才色兼備で、その賢さをひけらかすような面があって、嫌味な女性だったという噂があります。
実際に清少納言が贅沢をしていたのか、嫌味な女性だったのかわかりませんが、彼女の晩年はあまり派手ではなかったようです。
清少納言は、中宮・定子が第2子を出産した後に亡くなったことを機に宮仕えをやめています。
定子の亡骸は、東山の鳥辺野(とりべの)に埋葬されたので清少納言はその近くの東山月輪に隠棲しました。
晩年の清少納言は、出家して庵に住み定子の冥福を祈り続けたそうです。
このような彼女の晩年の暮らしは清少納言が派手好きであったり、嫌味な女性だったとは思えません。
さて、そんな彼女が残した有名な一句があります。
百人一首にも撰ばれているものなので皆さんもかるたなどで聞いたことがあるかもしれません。 
夜をこめて 鳥の空音(そらね)は 謀(はか)るとも よに逢坂(あふさか)の 関は許(ゆる)さじ
この句には彼女の溢れんばかりの才気が現れています。
技法のひとつである語呂合わせが沢山含まれているのです。
現代語訳はこんな感じになります。
夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、函谷関ならともかくこの逢坂の関は決して許しませんよ。
(色々とだまそうとしても、私はあなたに決して逢いませんよ)という意味です。
詳しく見ていきましょう。 
「夜をこめて」は、(夜がまだ明けないうちに)という意味になります。
「鳥の空音(そらね)は」鳥はにわとりで、「空音」は(鳴き真似)のことです。
「謀(はか)るとも」の「はかる」は(だます)という意味です。
「とも」は(~しても)。
「鶏の鳴き真似の謀ごと」とは、古代中国の史記の中のエピソードを指しています。
これは後で説明しますが、この辺りの歴史もきちんと勉強して知った上でこのような歌を詠んでいるところに教養の深さを感じます。
「よに逢坂(あふさか)の関は許(ゆる)さじ」
 「よに」は(決して)です。
「逢坂の関」は男女が夜に逢って過ごす「逢ふ」とを掛けた掛詞です。
「逢坂の関を通るのは許さない」という意味と(あなたが自分に逢いに来るのは許さない)という意味を掛けています。


清少納言の深い教養と頭の良さが分かる一句です。
状況を説明しますと。。

ある夜、清少納言のもとへやって来ていた大納言・藤原行成(ゆきなり)は、宮中に用があると言って早々と帰ってしまいました。
いわゆる逢瀬を重ねていたのです。
この藤原行成という人物は時の権力者としても有名ですが同時に相当な文化人です。
平安時代の三蹟(さんせき)の1人です。
三蹟というのは能書家で、筆が達筆な代表的な3人のうちの1人です。
当時までは漢字が主流だったのですがこのころから仮名文字がもちいられるようになり、彼はとても美しい仮名文字を残しています。
現存するものは本能寺に残されています。(本能寺切)
実際に見るととても柔らかくて「書」を芸術の域に引き上げた人物はまさに行成ではないかと思うぐらいです。
その意味でも彼は大納言まで上り詰めたと言うことだけでなく書家として、文化人としても大変有名だということです。


話をもとに戻します。

清少納言の元に出向いて楽しく話をしていた行成は早々と帰ってしまいました。
翌朝、「鶏の鳴き声にせかされてしまって」と言い訳の文を送りました。
受け取った清少納言は「うそおっしゃい。中国の函谷関(かんこくかん)の故事のような鶏の空鳴きでしょう」と答えているのです。
この「函谷関の故事」というのは、中国の史記にある孟嘗君(もうしょうくん)の話です。
孟嘗君は古代中国の秦の国に入って捕まってしまいました。
そこから逃げるとき、朝一の鶏の鳴き声がするまで開かない函谷関の関所を部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせたという話です。
この歴史的な史実を知らないとこの二人のやり取りは理解出来ないのです。
逆に言うとそのぐらいこの二人は高い教養を持った者同士だったということです。
ちなみにカンの良い方だったらお気づきだと思いますが、この函谷関の話はまさに祇園祭の函谷鉾の由来でもあります。


話がそれましたが、清少納言は「どうせあなたの言い訳でしょう」と言いたかったのです。

それに対して行成は「関は関でも、あなたに逢いたい逢坂の関ですよ」と弁解します。
清少納言のこの一句はその行成の歌に対して返した歌だったのです。
「鶏の鳴き真似でごまかそうとも、この逢坂の関は絶対開きませんよ(あなたには絶対逢ってあげませんよ)」という意味です。
前の夜に話の途中で宮中の用事を言い訳に途中で清少納言を置いて帰ってしまった行成に対してちょっと怒っているのかも知れません。即座にこれだけの教養を盛り込んだ歌を返すとは、さすが清少納言といったところです。
このほんの一句からずば抜けた知性を感じさせますが、男の立場から言えばさすがの時の大納言もタジタジではないでしょうか。
一条天皇の時代は藤原道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権力が最盛期に達し、摂関政治の栄華の極みに到達した時代です。
この藤原道隆こそが一条天皇の中宮・定子の父であり、影の実力者であり当時の最高権力者です。
そのような宮廷が最高に華やかなりし頃にその中心に一番近いところで生きた清少納言。
彼女ほどの教養と女性としての自信がなければ時の大納言・行成にあのような一句を詠むようなことはなかったでしょう。