2024.12.06
by 引地達也
去る11月29日、衆参両院本会議で第216回国会における所信表明演説を行った石破首相。その冒頭と結語に石橋湛山の言葉を引用したことが各メディアで伝えられましたが、識者はこの演説をどう受け止めたのでしょうか。今回のメルマガでは生きづらさを抱える人たちの支援に取り組むジャーナリストの引地達也さんが、前回の所信表明に引き続き「残念」と感じた箇所を指摘するとともに、社会保障が後ずさりしているようにも見えるとして、その理由を解説しています。
すべての国民を幸せに。石橋湛山の言葉を引いた石破首相の所信表明演説に何を感じたか
石破茂首相は11月29日、衆参両院の本会議で所信表明演説を行った。
所得税の納付が必要になる「年収103万円の壁」の引き上げや政治資金規正法に関する改革等、喫緊の課題への対応や安全保障への取り組み等、盛り込む内容は多く、多岐なる政策を一定の時間に収めるのは難しい。
独裁的な体制の国家であれば、長時間の演説は聞けぞと権威を振りかざすこともできるが、権威主義的態度は国民からの嫌悪を招くから、そうもいかない。
その「制約された」演説の中で、福祉や障害に関する社会保障の言及が少なかったのは前回に引き続き残念である。
演説の冒頭で1957年2月の石橋湛山内閣の施政方針演説である「国政の大本について常時率直に意見を交わす慣行をつくる」との言葉を引用し、議論への積極的姿勢を見せているのは、新しいものの、議論の材料となる中身は、これも限定的なような印象があるから寂しい。
10月の衆院選で自民、公明両党の与党は過半数割れし、野党の協力を得なければ国会では法案が成立しない状況。
だからこその「真摯に、そして謙虚に国民の安心と安全を守るべく取り組む」との言葉である。
今回の重要政策課題を「外交・安全保障」「日本全体の活力」「治安・防災」とし「全ての国民の幸せを実現する」と訴えた。
日本全体の活力を取り戻すために、宮崎県小林市、鹿児島県伊仙町の事例を紹介し、「これらを決して1つのまちの物語にとどめてはなりません」と言う。
日本全体の活力につなげるために「デジタル技術の活用や、地方の課題を起点とする規制・制度改革を大胆に進めていきます」とのこと。
オンラインで障害者をつなぐ活動とつながる改革を望んでしまう一方で、労働者や事業所不足で悲鳴を上げる地方の高齢者介護にもつながるもう一声がほしかった。
その演説で私が注目している「社会保障」は、「皆様に安心していただける社会保障制度を構築」するとし、「本格的な人口減少の中であっても、現役世代の負担を軽減し、意欲のある高齢者を始め女性、障害者などの就労を促進し、誰もが年齢にかかわらず能力や個性を生かして支え合う、全世代型の社会保障を構築していきます」とした。
またもや障害者雇用の促進である。
演説中に出てくる唯一の障害者が就労に結び付けているのが、この日本で置かれている障害者の立ち位置なのだろうか。
全世代型の社会保障という言葉で、どんな人も、という思いを具現化するための多様な活動や支援を促してほしいと思う。
石破首相が結語で再度示した石橋湛山の施政方針
しかしながら、「国民の安心・安全と持続的な成長に向けた総合経済政策」として示した内容は、マイノリティの存在は見えない。
この政策の目的として、第一は「日本経済・地方経済の成長」と明言した。
経済対策の一環として「今後2030年度までにAI・半導体分野に10兆円以上の公的支援を行い、10年間で50兆円を超える官民投資を引き出します。経済安全保障の強化や、リスキリング(学び直し)を含む人への投資も促してまいります」と前政権から「リスキリング」を引き継ぐが、これは経済効率寄りで「誰にとっても」のリスキリングからはまた遠のいた気がする。
さらに第二として「成長型経済への移行にあたり誰一人取り残されないようにすることが重要です」との「誰一人取り残されないように」とするために成長型経済が前提なのか、と考えると、社会保障が後ずさりしているようにも見える。
結語には、冒頭で触れた石橋湛山の施政方針を再度示した。
「常に国家の永遠の運命に思いをいたし、地方的利害や国民の一部の思惑に偏することなく、国民全体の福祉をのみ念じて国政の方向を定め、論議を尽くしていくように努めたい」。 ☞ LINK 石橋湛山の人となり
ここは石橋湛山ではなく、石破茂の言葉でもよかったような気がする。
☞ おがわの音♪360版より抜粋しましたので、以下 ご参考まで。
1959年9月に訪中。北京で周恩来首相(右)ら中華人民共和国の首脳と相次いで会談した
『雇用・利子及び貨幣の一般理論』の訳書は東洋経済より刊行された
もし湛山が病魔に倒れなかったならば
それにしても、歴史に「もし」は禁物とわかりつつ「もし湛山が病魔に倒れなかったならば」「湛山がもし、総理の座をすぐに投げ出さなかったなら」と考えないわけにはいかない。もし湛山が健康で、総理の座を全うしていたなら、国民的な人気を背景にした「社会主義勢力との共存」「中国との早期国交樹立」「日米中ソ印の5カ国の話し合い」という独自の外交観によって、岸による、日米安保路線とは大きく違った道筋を、日本が歩んだことは間違いない。
それ以上に、湛山自身の経済記者40年を振り返ってみれば、リベラルなエコノミストである湛山に、戦後の日本経済の成長期に、自由に経済政策を切り盛りしてもらいたかった、ということを夢想せざるをえない。
戦前の湛山は、日中戦争に踏み出す日本の短慮を批判し「小日本主義」を主張して、いたずらな経済的な拡張主義、軍備の増強主義を批判し続けた。
また、昭和恐慌前後の「金解禁論争」では、国際的な通貨変動の時代を予見したばかりか、「購買力平価論」を誰よりも早く、わがものとしていた。
さらに、1936年のジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』が出た直後には、英文でこれを読破して、「有効需要」の理論を、盟友の高橋亀吉ともども、自家薬籠中のものとしていた。
実践派エコノミスト、石橋湛山の知恵は、日本の戦後の経済政策に、もっと生かすべきだったのではないか、というのが、湛山同様、40年近く、経済記者として、マーケットを見つめ続けてきた、私の思いでもある。
岸は、安保改定後、日を置かず退任する。
その後継に指名されたのが、反主流派だった大蔵省出身の池田勇人であり、彼が選択したのが「所得倍増」を掲げた高度成長路線だった。
「所得倍増政策」によって、日本の高度成長期を乗り切った池田勇人の経済政策を批判する向きは少ない。
しかし、少し引いて見るならば、戦後の自由民主党の政治を、大蔵官僚主導の官僚主義と一体の仕組みに編み上げたのが、池田であり、宏池会だった。
まさに、自由民主党の一党支配と、大蔵省を頂点とした官僚支配をバブル崩壊まで引きずったのは、池田内閣が作り上げた自民党一党支配の体制だった。
池田の最大の罪も、そこにある。
湛山の道は、明らかに、もう1つの道だった
そして、湛山は、大蔵省から忌み嫌われ続けていた。
岸の商工省「革新官僚」主義から、大蔵省主導の「官民一体の資本主義」への権力移転は、こうして強化され、成立した。
それこそが、五十五年体制と呼ばれる、湛山も加わった戦後政治の転換の帰結でもあった。
それが、悪かったと断定する根拠を私は持たない。しかし、湛山の道は、明らかに、もう1つの道だったと思う。
そして、湛山が、もし健康に政権を全うしていたら、もう1つの道が政策として選ばれたことは間違いない。
エコノミストにして自由主義者だった湛山の夢を、戦後の日本の成長期に、縦横無尽にキャンバスに描いてほしかった!
そのように思うのは私だけではないだろう。
晩年の石橋湛山。1973年4月に亡くなった
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