なぜ味の素は有報で課題を赤裸々に開示したのか
味の素の人事部長と語る、人的資本経営の実践とパーパス
ゲスト:味の素株式会社 執行理事 コーポレート本部 人事部長 森永浩康氏
2024/09/02
日本における上場企業のほぼ全ての人的資本開示に目を通し分析したUnipos株式会社田中弦CEOが、有識者や実践者との対談を通じて「人的資本経営」の本質を追求していく。
今回のゲストは味の素 株式会社 執行理事 人事部長の森永浩康氏。田中氏は、同社の人的資本開示内容が昨年までとは大きく変わったと指摘する。その理由を探る中で、同社のこの10年の改革の歩み、人的資本に関する現状と、これからの“伸びしろ”が見えてきた。
業績の落ち込みをきっかけに人的資本の取り組みが始まった
田中弦氏(以下、敬称略):味の素さんといえば、経済価値と社会価値の両方の実現を目指す経営方針「ASV(Ajinomoto Group Creating Shared Value)」を掲げていらっしゃることが特徴ですね。
人的資本経営はまだ始まったばかりと伺っていますが、きっかけがあったのでしょうか。例えばこの10年で、人に関連する取り組みを大きく変えたことなどはありますか?
森永浩康氏(以下、敬称略):会社が大きく変わるきっかけになったのは、業績の落ち込みです。
過去20年を振り返ると、当社は2000年以降2019年にかけて、10年単位で最初は順調に営業利益を伸ばしていたのですが、途中から失速しています。
その理由を、当時の社長の 西井(孝明氏)が導き出した答えが、外部環境変化への適応力の弱さでした。
2000年代初頭は飼料用アミノ酸の製造・販売を行う動物栄養事業が大きく成長していました。
『味の素グループのASV経営2030年の目指す姿と2020–2025中期経営計画』(2020年2月19日)から引用
ところが、中国の企業などが参入して市場への供給過多となった結果、価格が大幅に下落しました。コモディティ化に対処しきれずに減速してしまったんです。その原因のひとつに「縦割り組織のタコツボ化」がありました。隣の組織がやっていることが見えていても、自分たちは関知しない、自分の組織のボスだけを見て仕事をしているという状況があるのではないか。
それではイノベーションは停滞してしまうというのが、西井の見立てでした。
そこで処方箋として打ち出されたことのひとつが、組織変革です。
タコツボ化を脱却するために共感を促そう、自発性を促すために手挙げ式にしていこう、良い意見が出せるように心理的安全性を担保しよう、といったことを掲げました。
また、縦割りを打破する仕組みとしてCDO、CIO、CXOを設置するなど、さまざまな策を講じて横串を通して行く方針も示されました。
それから、ガバナンスです。何事も閉じられた世界の中で決めていくのではなく、指名委員会等設置会社に移行し、社外取締役がきちんと公平な目で人選をし、実効性のある取締役会にしていこうということに取り組みました。
また、西井は働き方改革も相当進めました。働き方まで踏み込まないと人はついてこないということで、2017年には所定労働時間を20分短縮して8時15分から16時30分を就業時間としました。
スーパーフレックス制度を2014年には導入していましたのでかなり柔軟に働けるようになりました。
西井はこれらの処方箋をまとめ、覚悟を持ってやろうと呼びかける中で次の社長への交代も決めました。現社長の藤江(太郎氏)はその方針を踏襲し、経営をさらに「スピードUP×スケールUP」とパーパスの刷新により進化させるべく尽力しています。これがこの10年で変わってきたことだと思います。
縦割り組織のタコツボ化を脱却するために
田中:成長が頭打ちになってしまった時代を、森永さんも経験しているんですよね?
森永:はい。私は当時、味の素製薬(エーザイとの合弁である、現在のEAファーマ株式会社)という会社でマーケティングや経営企画を担っていましたが、タコツボ化していまし たね。
医療用医薬品と食品では全く異なる事業センスが必要ですが、当時の味の素の経営者は食品事業出身の方が多かった。
横串機能も効いていなかったこともあり、食品とはまったく異なるリスクやチャンスを理解した、中長期視点の投資判断が難しいのではないかと感じていました。
それが最近では、フォージ(Forge Biologics Holdings, LLC)というアメリカの遺伝子治療薬のCDMOを800億円超の金額で買収しましたが、横串機能のDIOがあり、経営会議における闊達な議論があるんです。
そのことで長期を見据えたヘルスケア領域の事業理解が進み、成長加速と高収益化を見据えた判断があり、脱サイロ化経営が浸透してきていると感じます。
田中:組織に横串を通すような施策が効いてきたという実感がありますか?
森永:象徴的だったのは、藤江が社長になったときの事業本部長の人事です。
アミノサイエンス事業本部長(現バイオ&ファインケミカル事業本部長)になったのが前田(純男氏)で、もともと食品事業の経営者として素晴らしい実績をもっていました。逆に食品事業本部長になった正井(義照氏)は「アミノサイエンス」系の事業で素晴らしい実績をあげていたんです。
2人の得意領域を入れ替える形で役員人事が行われたんです。
その結果何が起きたかと言うと、これまでとは違う見方・切り口で事業を見ることになり、新しい発想が生まれてきました。
田中:面白いですね。
森永:トップだけでなく従業員も、事業を超えた異動が活発になりました。
去年は全従業員3,800人中700人が異動し、その内の13%くらいがクロスファンクションでの異動でした。
アミノサイエンス系を得意としている人が食品事業分野に行ったり、その逆があったり、あるいはコーポレートの人が食品事業分野に行ったりということが起きています。
田中:10年前はそういうことがなかったんですか?
森永:そういうわけではありません。
私も食品の営業をやってから医薬のマーケティング部門に移りましたし、他の会社よりは比較的クロスファンクション、もしくはクロスセクションでの異動が多かったと思います。ここ数年はそれにドライブをかけ、意図的に回し始めたという感じです。
田中:中途採用も増やしているそうですね。
森永:そうですね。私が人事に来た2017年頃は新卒採用が60名程度でキャリア採用は20〜30名程度でした。
それが昨年と今年は新卒とキャリア採用それぞれ140人採っています。
田中:それは大きな変化ですね。
森永:はい。味の素に足りない専門性を自前で育てるには時間が足りません。キャリア採用で専門性や新しい発想をダイレクトに受け入れていこうという発想です。
ジョブ型を導入するだけでなく、キャリアの解像度を上げる社内情報を提供する
田中:味の素さんは以前から「適所適材」を打ち出し、ジョブ型人事を取り入れていましたよね。
森永:そうですね。2016年から基幹職(管理職)にジョブ型を取り入れました。
味の素らしいジョブ型のコンセプトが、「適所適材」でした。
現在、基幹職は1,500ポジションあって、その全てについて細かくジョブディスクリプションを書いてもらっています。
田中:それはすごいですね。社員のキャリア自律性はどうですか?
森永:キャリアデザインを従業員自らが考え、上司がそれをサポートするというのは、味の素の誇るべき文化です。
各自が1年に1度、1時間ほど上司と面談をするんです。その際に、過去にやってきたこと、できたこと、これからやりたいことを年表の形で整理し、例えば10年後には海外法人の法人長になっていたい。そのためにバックキャストしたらこれが足りないから頑張ります、といったことを上司に説明します。
田中:そんなこと言われたら、上司は泣いちゃいますね。
森永:そうなんです(笑)。その将来像に対して適性があれば、背中を押したくなりますよね。
必要な研修を受けさせてあげるとか、定期異動のときにその人のやりたいことになるべく合わせた異動になるよう調整をするとか。
田中:「こういうキャリアを描いていたけれど、気が変わりました」というのもありですか?
森永:はい。家族の構成が変わる、もしくは介護する必要が出てきて「海外に行きたいと思っていたけれど、今は国内でこんなことをやってみたい」というようなこともあります。
ですから毎年、上司と部下で1時間くらい時間をかけて確認します。実はこれを、1980年代から脈々と続けてきています。
田中:それでもやっぱり、タコツボ化は起きるものですか。
森永:そうですね。
以前は職場や職務に関するあまり深い情報が得られない状態で「マーケッターがかっこいいから、あそこに行きたい」みたいなイメージ先行の希望が多かったんです。結果、部門を跨ぐ異動は少なく、タコつぼ化もあったと思います。
でも、欲しい多様な人財を採るには自分の組織や職務に関する情報をちゃんと出さなければいけないということが分かってきて、最近は大きく変わりました。
例えば「職場紹介サイト」というところで各職場の魅力や職務内容をアピールしたりしています。
田中:誰が中心となってやるんですか?
森永:職場紹介サイトのコンテンツ作りはその職場の有志がやります。最後は組織長が内容をチェックしますが、かなり自由にアピールしていますよ。
それから年に2回、キャリアに関する情報をたくさん提供する「キャリフェス」というものもやっています。
また、味の素には所属部署とは異なる人からメンタリングを受けることができる「ななメンター」という制度があるんです。「あの事業部のことが知りたい」といったときに、人事部が仲介してメンターとつなぎます。
こういった取り組みで、最近はキャリアデザインの解像度が上がってきました。この2年は公募も本格的に始め、少しずつ軌道に乗ってきているところです。
変わらない味の素らしさは「人を大切にする」組織文化
田中:逆に、この10年で変わらない部分はなんですか?
森永:味の素グループWayとして「新しい価値の創造」「開拓者精神」「社会への貢献」「人を大切にする」という4つの行動指針があります。
採用面接などで学生さんとお話すると、特に「人を大切にする」というところや社員の人柄に魅力を感じるようです。
田中:それが現れている制度などはありますか?
森永:例えば、働き方改革の一貫で、コロナが問題になる前から「どこでもオフィス」という制度を始めていました。
生産の一部を除く全社員にPCとiPhoneを貸与し、自宅でもサテライトオフィスでも仕事ができるという制度です。上司がOKであれば会社に来なくてもいいんです。
コロナが明けてから「出社しなさい」という会社が増えてきていますが、味の素は今でもハイブリッドワークです。
職場でそれぞれ出社するか決めてくださいと。マネジメント上問題なければずっと在宅でも構いません。
また、グローバルに法人がたくさんありますので、夫婦のどちらかが転勤になると、パートナーは休職かいったん辞めて再雇用制度で戻るかという選択肢が以前からありました。ところが「辞めたくない」という話になり、検討の結果「どこでもキャリア」という仕組みを入れました。
例えば人事部の仕事をしている社員のパートナーがアメリカに転勤になったとして、出社せずともオンラインで人事部の職責をはたせるのであれば、人事部の仕事を継続しながらアメリカについていくことができるという制度です。
田中:そんなことができるんですか。
森永:税法上の問題などもあってケースバイケースで工夫が必要ですが、何件か実現しています。
国内ならもっとやりやすいですから、数年前から実績があります。
田中:新卒の方は“人”に魅力を感じて入ってくるということでしたが、具体的にはどんな印象を抱くのでしょう?
森永:新卒の採用過程では、多数の社員に会ってもらうんです。
結果的に、最終面接まで残る人は色々な社員と会い、その上で来たいと思ってくれていることが比較的多いですね。
丁寧に寄り添って人となりを見てくれる、正直に教えてくれるようなところに、良い印象を抱いている人が多いようです。
田中:「人を大切にする」というのが根付いているんですね。
森永:ただ、良くも悪くも同質性が比較的高いと感じています。
もっと多様な人財を受け入れてインクルージョンしていかないとイノベーションが起きづらいのでは、とも考えています。
有報で課題のある項目も積極的に開示する
田中:海外での市場開拓の経緯を書いた『地球行商人-味の素グリーンベレー』(黒木 亮 中央公論新社)などを読むと、すごく
開拓者精神にあふれていますよね。
それと人に寄り添う人財というのが、ちょっとタイプが異なるような気がします。
森永:今も開拓者精神のある人間はたくさんいます。
でも、1950年代の、海外進出の経験が全くないのにニューヨークに事務所を作ってしまうような勢いは少なくなっているように思いますね。それくらいの開拓者精神があらためて必要になってきているという認識で、今は「挑戦」というキーワードで人事戦略を組み立てています。
田中:有価証券報告書(有報)の人的資本開示では、まさに「挑戦」に関して「手挙げによる異動比率」を挙げ、2023年度
実績として5%という数字を開示されています。
また、「多様性」の指標として「キャリア採用で入社する従業員の比率」や「全従業員の内のキャリア採用で入社した従業員の構成比」も開示されています。
以前はここまで明確な数字を開示していませんでしたよね。社内で反対などありませんでしたか?
森永:昨年までの開示を振り返ると、我々が出したい情報を示すだけにとどまっていて、田中さんが「課題は伸びしろ」と
おっしゃるところの「課題」が全く出せていませんでした。今回はそれをちゃんと出していくことにしたんです。
それによって、より共感をしていただけるはずだから、そちらを狙っていくべきなんじゃないかと。
そんな話し合いをしてきましたので、反対されることはなかったです。
田中:味の素さんの有報が公表されたときに、僕はSNSで紹介したんです。
たくさんの反応があり、特に詳しい方々は、「目標は検討中」とか「これから計測を始めます」といったものまで独自指標として書かれているのが斬新だと驚いていました。
「<味の素グループの人的資本に対する考え方>(4)指標及び目標」(「味の素株式会社 024年3月期(第146期)有価証券報告書」)
森永:それは苦肉の策でして、まだ経営レベルで目標値のコミットはできていないけれども、実績値は開示したいという思いがあったんです。
それで、決まっていないものについては「検討中」で出すことにしました。
田中:まだデータはなくても、これから取るんだ、という意思が伝わってきました。
「自分にとって挑戦と思えることを1つでも達成できたと答えた人の割合」を指標にしたのは、挑戦の裾野をもっと広げたいということですよね。
森永:そうですね。
それに、会社がいろいろな施策を実施しても、従業員が実感していなかったら意味がないですよね。
グローバルで行っているエンゲージメントサーベイは回答率が96%と非常に高いので、だったら設問に入れてしまおうと考えました。
組織のパーパスと個人のパーパスの重なりから見えること
田中:これから2030年に向けて取り組んでいきたいことはなんですか?
森永:パーパスを、海外も含むグループの全従業員に浸透させることです。
『「アミノサイエンス」で人・社会・地球のWell-beingに貢献する』という味の素グループのパーパスを、人数では圧倒的に多数を占める海外法人のスタッフにもちゃんと理解した上で共感してもらい、自分のパーパスとの重なり合いを見てもらいたい。それが、うちの将来に向けての大きな礎になるのではないかと考えています。
田中:「アミノサイエンス」を今後の柱にしていこうということですか。
森永:「アミノサイエンス」というのは味の素独自の造語ですが、実は昔からやってきているんですよ。
世の中からは、味の素は「ほんだし」を始めとした食品会社として見られていると思いますが、その「ほんだし」も、アミノ酸のはたらきである「おいしくする」を研究し続けて改良しているから、ずっと愛されているんです。アミノ酸の研究を活かして次々と新しい事業を生み出し、今の味の素グループになっているという歴史があります。
ですから、今後もそれを独自の強みとして価値創造していこうということです。
田中:なるほど。
森永:単に「会社のパーパスを覚えています」というだけでは事業を前進させる力にはなりません。
自分ごと化するためにはそれぞれの「マイ・パーパス」を言葉で紡いでもらう必要があると思うんです。その上で、会社のパーパスと自分のパーパスが重なる部分があれば、会社を通じてやりたいことが出てくるはずですよね。そのための活動を、今年からグローバルに展開していきます。
すでに人事部の中に「Our philosophy 共感推進グループ」というのを作って、7月から本格的に動き始めました。
ワークショップで自分のパーパスを紡いでもらうということを、味の素グループの施策の一貫としてやっていきます。
『“Our Philosophy” ~食と健康の課題解決、その先へ~』
(中期ASV経営 2030ロードマップ/P6)を引用
田中:それには「時間」と「お金」と「根性」が必要ですね。
森永:はい。それでも、この1〜2年をかけて味の素グループ従業員全員に1回はやってもらおうと、動き始めたところです。
重ね合わせるのは、味の素全体のパーパスではなく自分が所属している法人や組織のパーパスでも構いません。自分のパーパスは何で、所属している組織の方向と合っているのかどうかを確認するという時間を作っていきます。
田中:僕のマイ・パーパスはごくシンプルで、「時代をつくる」です。
森永:僕は「世の中を笑顔で満たす」です。
自分のこれまでを振り返る中で余計なものが削ぎ落とされて、大事にしているシンプルなフレーズが残るものですよね。
田中:そうですね。
でも、それを3万4,000人でやろうというのが、すごい(笑)。
味の素さんのカルチャーにも良い影響を与えそうで楽しみです。
今日はありがとうございました。
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