おがわの音♪ 第1626版の配信


たくさん本を読むだけでは賢くなれない

「わかりやすく書かれた本を読んで得た知識」には何が足りないのか?

2024.09.23 

by 『読む・書く・考えるの探求』

我々の知的好奇心を大いに満たしてくれる「読書」。しかしながら、ただ本を読んだだけで得られる知識が極めて限定的なものであることも、また言わずもがなの事実です。 今回は文筆家の倉下忠憲さんが、「わかりやすい本を読んで得られた知識」に足りないものを解説。さらに「本を読むことの良さ」について考察しています。



本を読むと賢くなった気がするだけ。「わかりやすい本を読んで得られた知識」に足りないもの

本を読むと、賢くなった気がしてきます。特に、わかりやすく書かれた本を読むと、いろいろな知識が得られてハッピーです。

そうした知識を複数組み合わせると、なんとなくスゴそうな文章が書けたりもします。

知的な文章の生成。あたかもそれが知的生産であるかのように勘違いしてしまうかもしれません。

しかしながら、そんなに簡単に賢くなれるなら、そもそものその賢さにはバリューがないでしょう。

得ることが難しいからこそ、バリューが宿るわけです。

簡単にハックされてしまうものから価値がはぎ取られてしまうのは、「ページランク」の歴史を眺めれば一目瞭然です。

では、「わかりやすい本を読んで得られた知識」に足りないものはなんでしょうか。

 

■「名詞」でしかない本を読んだだけで得られた知識

本を読んで(読んだだけで)得られた知識は、端的に言えば「名詞」でしかありません。

たとえば、「弁証法」という言葉を知ることは簡単にできます。ちょっとググッてみましょうか。

弁証法とは、ある命題(テーゼ)と対立関係にある命題(アンチテーゼ)を統合し、より高い次元の命題(ジンテーゼ)を導き出す止揚(アウフヘーベン)の考え方を土台とした思考法。

検索結果のページを見るだけでも、これだけの情報が手に入ります。

上記を丸暗記しなくても、「テーゼとアンチテーゼがあって、そこからもっとすごいジンテーゼというのを生み出すんだな」くらいはわかるでしょう。

それをアウフヘーベンと呼ぶこともわかります。

このようにして「弁証法」という名詞が手に入りました。広い意味で言えば、これもまた知識の一種ではあるでしょう。しかし、名詞的な知識です。

以降でその名詞的な知識の不十分さを指摘していくつもりですが、その前にお断りしておきたいのは、別段そうした知識を得ることが悪いわけでも間違っているわけでもない点です。というか、一番最初はそれが入り口になります。

そもそも「弁証法」という名詞を知らなければ、ググることもできませんし、関連文献を探すこともできません。だから、まず言葉=名詞を取得するのがスタートです。

ただ、そこで終わりにしてしまうか、それとも始まりにするのかに違いがある、という点を確認していきましょう。

■「名詞的な知識」から「動詞的な知識」

名詞的な知識とは、弁証法ならば「弁証法」という呼び方を知り、その内実について記述説明)できる状態を意味します。

わかりやすい本で提示される知識は、おおむねこの水準の知識です。

では、その次の水準はと言えば、それは動詞的(ないしは動作的)な知識です。

同じく弁証法ならば、具体的な対象ついて弁証法を用いて思考できること。

それが動詞的な知識を有しているということで、それは動作的=技能的な知識を持っているということでもあります。

たとえば何かしら状態Aがあり、それとは逆のBという状態があって、その二つのどちらかを選ばなければならないとなったときに、「いやまてよ、状態Cというのがありうるのではないか」と考えられるならばそれは弁証法的思考法を身につけていると言えます。

仮にそうした思考法を持たない状態Xがあり、持った状態Yがあるとして、XからYに移行したならば、それは「賢くなったとひとまずは言えるでしょう。

しかしながら、その思考法=動詞的知識は、動作であり技能でした。技能は簡単には身につきません。訓練が必要です。

だからこそ、それが身についたときにバリューになります。

もし、たくさん本を読み賢くなって他人と差別化するぞ、という世俗的な欲求を持っているならば、たくさん本を読んでいるだけではぜんぜん足りません。

そこで得られた知識を動詞的知識(技能)に換えていく必要があるのです。

AIの登場で失われた「たくさん本を読む」ことの価値

少し前までならば、名詞的知識をたくさん獲得し、それらを使って知的な文章を生成できることにも価値がありました。

「たくさん本を読む」ことに希少価値があったからです。

しかし、本当にびっくりするくらいの速度で環境が変わりました。言うまでもなく生成AIの登場です。

彼らが有する名詞的知識は、ひとりの人間がどう頑張ったところで敵うものではありません。

名詞的知識を組み合わせて、それっぽい文章を生成することを人間がやると、基本的には下位互換にしかならないのです。

今後、生成AIの普及は著しく進んでいくでしょう。

彼らが真なる知能(汎用人工知能)に至るかどうかとはまったく関係なく、情報利用においてさまざまな場面で生成AIが使われるようになっていくはずです。

それはつまり、希少価値が薄まる=バリューがなくなることを意味します。 

だとしたら、なおさらXY型の動詞的知識の獲得を目指すのが賢明でしょう。

■とは言え軽んじてはいけない名詞的知識の価値

この話の難しくて面白いところは、名詞的知識がなくても、動詞的知識がある場合です。

たとえば、「弁証法」という名詞を知らなくても、それと似た思考を行っている人はいるでしょう。

水素原子は、その名前を得る前からこの世界に存在していたのと同様に(これは哲学的に批判可能ですが、それはされておき)、名前を与えられていないが存在はしているものはたくさんあり、技能についてもそれは同様です。というよりも、技能的なものの大半は名づけられていません

そうした観点から名詞的知識を軽んじる向きもありますが、SECIモデルが示すように名詞化することで共有が可能になる点と、技法の改良などの議論が可能になる点は見逃せません。  

     [野中郁次郎][竹内弘高]よる[『知識創造企業』]で提案された[ナレッジマネジメント]の枠組み

 暗黙知の共有→形式知化→形式知の連結→組織の暗黙知化

【共同化】Socializaiton

  [暗黙知]から暗黙知へ

【表出化】Externalization

  暗黙知から[形式知]

【連結化】Combination

  形式知から形式知へ

【内面化】Internalization

  形式知から暗黙知へ


真に重要なものが動詞的知識であったとしても、いやならばこそ、名詞的知識を軽んじてはいけないでしょう。

 

■興味の幅を広げていくと見えてくるそれぞれの知識の「はたらき」

もう一つ、別のルートがあります。

たとえば「弁証法」という名詞を知った後で、これを提唱したヘーゲルってどういう人だったのかとか、それと関係するマルクスはどのようにこの概念を自分の思想に組み込んだのだろうか、という風に興味の幅を広げていくルートです。

それぞれの興味において得られるのもやっぱり名詞的知識でしかないかもしれません。

しかし、そのような情報の関連(ネットワーク)を広げていくと、さらに興味が広がっていくと共に、それぞれの知識の「はたらき」が見えてきます。

そのような知識の獲得は、残念ながら、やればやるほど自分が「バカ」になっていく感覚があります。知らないことが山ほどあると自覚されるからです。

一方で、ただバカになるだけの感覚でもありません。

バカはバカだけども、少しは知っている(≒自分の知識ネットワークを有している)という感覚も同時にはぐくまれます。

なんにせよ、複雑なものがそこにはあります。単純に「賢くなったハッピー」では終わらない何かです。 

本を読むことの良さは、そういう複雑さの中に折り込まれているのでしょう。  ) 2024819日号の一部抜粋




 

最後までお読みいただき、有り難うございました。  ☚ LINK 

*** 皆さんからの ご意見・ご感想など BLOG』のコメントを頂きながら、双方向での 【やり取り】 が できれば、大変嬉しく思います!!   もちろん、直接メール返信でもOK ! です。 ^_^ *** 


メール・BLOG の転送厳禁です!!   

     よろしくお願いします。