家康が江戸幕府を開けたのは「天正地震」で秀吉が家康を討てなくなったから?
2021.12.17
by 芳村篤志
近ごろ日本列島周辺で大きな地震が頻発している。2021年、関東では東日本大震災の2011年以来、鹿児島のトカラ列島でも2000年以来の震度5強を観測する地震が発生するなど、日本中で大きな揺れを観測する地震が相次いでいる。そこで、日本の長い歴史の中で発生した巨大地震を振り返ることによって、現代に生きる私たちが学ぶことがあると考え、12月3日にメルマガ『歴史時代作家早見俊の「地震が変えた日本史」』を創刊した時代小説作家の早見俊さんと、地震予測界の重鎮である村井俊治・東大名誉教授が会長をつとめるJESEA(地震科学探査機構)代表でメルマガ『週刊MEGA地震予測』発行責任者でもある橘田寿宏さんのお二人に、平安時代から安土桃山時代、江戸時代などに発生した日本の巨大地震史を紐解きながら、歴史の転換点となった大地震や噴火などに関する歴史的な考察を交えてお話しいただいた。
秀吉は「地震」によって家康討伐を諦めざる得なくなった?
時代小説作家として、これまで数多くの著作を世に送り出してきた早見俊さん。
そんな彼がつい最近創刊したメルマガ『歴史時代作家早見俊の「地震が変えた日本史」』は、タイトルの通り“歴史と地震とは密接に繋がっている”という視点から、日本の歴史を改めて紐解いていこうという試みだ。もともとは人気のメルマガ『週刊MEGA地震予測』内で、エッセーとして掲載されていたこれらの作品。
実は、早見さんと『週刊MEGA地震予測』の発行責任者である橘田寿宏さんのおふたりは、大学時代の同窓生なのだという。
「大学では同じゼミで学んで、それからかれこれ40年来の付き合いなんですが、ある時に早見君から聞かされた地震と歴史との関連性の話が、とても面白くて。
同時に、これを興味深いと思う人は結構多いんじゃないかと思ったんですね」(橘田さん)
それらのなかでも特に印象的だったというのが、今から遡ること約400年ほど前、安土桃山時代の話だ。
「織田信長が非業の死を遂げた後に天下を統一した豊臣秀吉ですが、実は徳川家康の討伐を計画していたものの、地震によって諦めざる得なくなったんです」(早見さん)
豊臣秀吉と徳川家康といえば、1584年に起きた小牧・長久手の戦いで両者がぶつかり合い、局地戦では家康方が勝利を収めたものの、最終的には両者が講和を結ぶ形に。その後の秀吉は、家康に対して徹底的な懐柔策を行い、ついには臣下の礼をとらすことに成功したという流れが、いわゆる定説だ。
「ところが、ここ数年の研究でこのあたりの経過が検証し直された結果、秀吉は実のところ小牧・長久手の戦い以後も家康を潰す気だったようで、準備万端に整えていたといいます。しかし、秀吉がまさに攻め入ろうかというタイミングで起こったのが、天正地震だったんです」(早見さん)
1586年1月18日に発生した天正地震では、近畿地方をはじめ北陸地方や東海地方の一部という広い範囲において大きな被害が発生。
特に、秀吉が家康討伐の際に兵を展開させる予定だった美濃や尾張といった地域は、壊滅的な状況に陥ったと伝えられている。
「それに対して三河地方など家康の領国は、ほとんど被害が出ませんでした。この地震による大きな被害で、秀吉側は戦どころでなくなったとみられています」(早見さん)
さらにこの天正地震では、飛騨国の一部を治め金山などの鉱山経営によって巨財をなしていたとされる内ヶ島氏という氏族が、地震によって発生した山崩れによって、居城の帰雲城(かえりくもじょう)やその城下町もろとも土砂に埋まり、滅亡してしまうという出来事も。
今でも“埋蔵金伝説”とともに語り継がれるこの悲しいエピソードだが、このことも秀吉が家康討伐を諦めるひとつの要因となったという。
「内ヶ島氏は、先の小牧・長久手の戦いにおいて秀吉とは敵対していましたが、出陣していた留守の間に領土や居城を奪われ、秀吉に降伏します。その際、通常なら領地の召し上げなども十分に考えられたのですが、秀吉はほぼ本領安堵で内ヶ島氏を許しました。恐らくは内ヶ島氏が持つ鉱山経営のノウハウ、そして貯め込んでいた金をアテにしていたとみられるのですが、それも地震によって灰燼に帰してしまう形に。こうして家康討伐に使うことを目論んでいた資金も、秀吉は失うことになったんです」(早見さん)
史実では、秀吉亡き後に関ヶ原の戦いを経て江戸幕府を開くことになる家康。
しかし、もしも天正地震が起きていなければ、家康は秀吉にあえなく滅ぼされてしまい、今とは違った歴史となっていた可能性も十分にありえるというのだ。
江戸の庶民たちを震撼させた“最悪の事態”とは
さて、その徳川家康が開いた江戸幕府のもとでは、260余年に渡って太平の世が続いたのだが、その間にも地震をはじめとした自然災害は度々と起こった。
「なかでも僕が知り得る最悪の事態が、わずか4年という短い間で起こった元禄地震と宝永地震、そして宝永大噴火ですね」(橘田さん)
1703年に発生した元禄地震は、房総半島南端の野島崎から南側の海底が震源とされており、相模地方を中心とした関東一円で大きな被害が発生した。
また、その4年後に起きた東海道沖から南海道沖が震源域とされる宝永地震では、東海地方から九州地方にかけての広い地域を激しい揺れが襲った。
さらに、この宝永地震のわずか49日後には富士山が大噴火を起こし、関東平野の広範囲に大量の火山灰を降らせたのだ。
「例えるなら、関東大震災の4年後に南海トラフ三連動地震が起きて、その直後に富士山の巨大噴火ですから、もうとんでもない話です」(橘田さん)
その頃の将軍は“犬公方”として知られる5代目の徳川綱吉。
当時の幕府は、従来の貨幣を回収し、金・銀の含有率を下げるなどしたうえで再流通させるという、いわゆる貨幣改鋳の真っ最中だった。
「この貨幣改鋳が江戸の庶民からはとても不評で、宝永大噴火が起きた際には“幕府が悪貨を流通させて私腹を肥やした報い”だという、根拠のない迷信も噂されたぐらいですから(笑)。現在でも、コロナ対策で財政出動をすべしという意見と、増税で緊縮財政にすべしという意見が対立する状況ですが、この当時も貨幣改鋳、今の感覚でいえば国債を大量に刷るのと同じようなことですが、それで幕府の財政は一時的に潤いました。ところが綱吉の死後、幕政を担った新井白石は緊縮財政に転じて、それによって世の中は大不況になったんです。まさしくバブル後の30年不況と同じような状況です」(早見さん)
大災害の発生で苦しむ庶民たちに対して、時の為政者たちが行なってきた救済政策。
だが、それらもまさにこれまで同じような轍を繰り返していると、早見さんは指摘する。
「江戸から時代は進んで関東大震災の際、日本政府ははじめてのモラトリアム、1か月間の支払い猶予令を出し、さらにその後には政府が予算を付けて、大震災の影響で決済ができそうもない手形を日銀が一手に引き取るということをやったんです。その結果、予算を遥かに上回る金額の手形が持ち込まれて、後に不良債権化してしまったのですが、その手形のなかには大震災とは関係なく決済が困難になったものも大量に含まれていたんです。まさに最近取沙汰されている、コロナ支援金の不正受給と同じような話ですが、緊急事態ということでスピードが要求されるなかで、そういうことが繰り返されてしまうんですね」(早見さん)
一方、先に触れた宝永地震と宝永大噴火だが、これと同様に大地震と富士山の噴火が比較的短い間で立て続けに起きたというケースは、それ以前の歴史にもあったと話すのは橘田さんだ。
「864年に起きた貞観の大噴火と、その5年後の貞観地震です。この時の噴火口は、富士山山頂から10㎞も北側に離れたところで、噴火によって溶岩が流れたところに今の青木ヶ原樹海ができ、さらに当時富士山北麓にあった剗の海(せのうみ)と呼ばれる湖も溶岩で分割されて、今の西湖と精進湖に分かれたんです。ほかにも多くの火口が富士山にはあるんですが、富士山噴火のハザードマップは、過去の噴火の規模や火口の位置などの条件を仮定して作られているので、まだ発見されていない火口があると考えると今あるハザードマップだけに頼ってはいけないと思います」(橘田さん)
宝永大噴火による降灰が激しかった足柄平野などの地域では、その影響による土砂氾濫などの災害が長らく繰り返され、さらに地表を覆った火山灰と下層の耕作土を入れ替える「天地返し」の作業も難航を極め、完全な復興まで実に100年もの歳月を費やしたとのこと。その点、現代なら重機などもあり復興も容易かと思いきや、そう簡単にはいかないようだ。
「火山灰は雪とは違って自然に融けないので、下水道などは完全に麻痺するでしょうし、鉄道の線路に降り積もれば交通機関にも甚大な影響が出るでしょう。もちろん、農作物も降灰でダメになりますし、人も灰によって気管支や肺をやられる可能性もあったりと、火山灰というのはひじょうに厄介なんです。宝永大噴火以来、大規模な噴火が起きていない富士山ですが、太古からの歴史を紐解くと100年から200年に一度は大きな噴火を起こしている。それが今、350年ぐらい大きな噴火がないということは、そろそろ来ても不思議ではないし、逆に来なきゃおかしい。個人的には、今後起こり得る大規模地震と同じぐらい、富士山の噴火は心配ですね」(橘田さん)
自然などの自然災害と寄り添って生きてきた日本人
あらゆる時代において人々の前に立ちはだかった、地震をはじめとした自然災害。しかし、橘田さんが「地震などの自然災害は人間のライフスタイルを変える。……最近のコロナでもそうでしょう?」と話すように、どの時代の人々もそういった災害に対し、実にしなやかに対応してきた。
「実際、貞観地震が起きた平安時代前期は、天然痘などの疫病も流行していて、多くの方が亡くなっていった時期でした。その頃は貴族などの上流階級はともかく、下々の庶民たちは野辺に打ち捨てられて野ざらしというのが当たり前でしたが、あまりにも大量の死者が出たうえに、“死はうつる”といった考えも庶民などの間で出てきたことから、火葬などの埋葬文化が広まったと言われています。さらに言えば、京都の夏の風物詩のひとつである祇園祭も、疫病などで亡くなった死者の怨霊などを鎮め病を封じるといった目的で、地震のあった貞観年間から始まっています」(早見さん)
また江戸時代になると、災害に遭われた人々に対しての“助け合い”といった意識も、庶民レベルにおいて早くも芽生え始めていたという。
「お金持ちは施しをすべきだという考えが江戸の人々の間にはあったようで、1855年に発生した安政地震の際には、豪商たちがこぞって寄付をしたという記録があります。当時は町会所で寄付額を貼り出すといったこともしていたようで、江戸っ子の見栄っ張りなところも、多額の寄付に繋がったんだと思います(笑)。さらに江戸では、ひとたび地震や大火が起きると、それまで釘など一度も打ったことも無いような人たちが大工仕事に従事して、ひと稼ぎをしたといった話も。当時の人たちも、決して楽しんでいたわけではないでしょうが、地震などの自然災害に対してむやみに抗わず寄り添って生きていた、そんな庶民たちのたくましさが垣間見えます」(早見さん)
この度、12月より配信が始まったメルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』を通して、早見さんが読者に伝えたいと願っていることは、まさにこういった地震などの自然災害が頻発するなかでも、必死に生き抜いてきた日本人の姿だ。
「日本人は地震をはじめとした自然災害と共生してきた民族。だから、そのことを正しく知り、後世に伝えていくことはとても大事なことかと。特に、災害の度にひどい目に遭いながらも、たくましく生き抜いてきた庶民たちの姿、これをぜひ伝えていければと思っています」(早見さん)
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