2024.09.24
by 松尾英明
学校教育について多くの話題を伝えている現役小学校教師の松尾英明さん。
今回は“教える”ということが軽視・敬遠されがちな現状で、教師は教えることとどう向き合うべきかについて語っています。
学びの主体は子ども、授業の主体は教師
前号で、教えるということへの価値の見直しについて書いた。
教えることが軽視、敬遠されがちな現状を憂えている。
『授業力&学級経営力 2024 10月号 子どもに「教える|任せる」の境界線」』P.11(松尾執筆)の冒頭及び文末を引用する。
1 学びの主体は子ども、授業の主体は教師
昨今、自由進度学習なども脚光を浴びており、教師の「教える」という機能は低く見られがち、かつ遠慮がちになっています。
はっきりと言いますが、これは完全な誤認です。皆さん、目を覚ましましょう。世間の流行に流され、すぐ翻る言説に翻弄されているようでは、到底物事の本質を掴むことはできません。
そもそも、この雑誌を読んでいること自体、自分の知らないことを他者に教わっているという姿勢のはずです。そうでなくては意味がありません。
(中略)
「子ども主体」といえど、その言葉に寄りかかって授業の準備をしないのは職務怠慢です。あくまでも教師が授業の主体であるという気概をもって、子どもたちが主体となって学べる環境を整え、必要な指導を堂々と躊躇なく行っていきましょう。
自由進度学習の存在自体はいいのである。時と場に応じて必要である。ただ、それは決して万能ではないということである。
先日出演した「ABEMA Prime」でも同様の話をしたが、みんながみんな自由を求めている訳ではない。
(参考:「ABEMA Prime」EXIT兼近「多様化は教育を難しくさせるのでは?」一元管理は限界?必要な学びとは)
否、むしろ、多くはクリエイティブを求められるより、決められたことをきちっと行う方がいいと考えている、というのが経験的な実感である。
誤解を恐れずに言い切れば「聡明なリーダーに、正しい判断を下し、命じて欲しい」と思っている人が大半ではないか、ということである。(ちなみに、真逆は最悪である。愚鈍な形だけリーダーが、誤った判断をし、ぐずぐずして命令もできないし責任もとらない、という状態である。)
よく、アメリカなどと比較して、日本人の「起業家精神」の低さが問題視される。
果たして、それは本当に問題なのだろうか。極端な話、全員が起業家になって起業してしまった場合、各社の社員の確保はどうすればいいのだろうか。
言わずもがな、リーダーシップを発揮する一人に対して、多数のフォロワーシップを発揮する人の存在が必須である。
そして、リーダーシップの発揮者=主体性発揮者という訳ではない。例えば、今流行の、フォロワーに進んでなる「推し活」は、主体性をフル発揮しているといえる。
一般的な日本人の気質というのは、文化的にもこちらに適合しているように思える。
根本を間違えないことである。授業は、教師主体でいいのである。教えるのは、教師主体でいいのである。
その時、学びの主体が子どもであるという意識を決して忘れないことである。
そこが抜けると、昭和~平成に逆戻りの、残念な結果となる。
「〇〇大会の優勝」や「○○コンクール金賞」、「運動会の勝利」等が、教師のものになってはいけないのである。
熱血指導が通るのは、相手も本当にそれを望む時だけである。(よって「クラス全員で○○を目指す」はほとんどの場合、厳しい。)
学びの結果責任を受け止めるのは、子どもである。「宿題をやらない」からといって、キーキー言う必要はない。その結果の不利益を被る(あるいは利益を享受する)のは子どもであって、決して教師ではないからである。教師が不利益(あるいは利益)を被るのであれば、それ自体が誤っている。
教師は、その宿題が本当に適切であったかの検討の方をすればよい。
教えることを恐れない。責任をもって教える。リーダーに必要な決断力、判断力、行動力を、教師という立場の人間は発揮する必要がある。
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よろしくお願いします。
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