2024.08.27
by 松尾英明
親切がかえって人をダメにし、むしろ不親切こそが本当の親切だ、という考え方があります。
現役小学校教師の松尾英明さんは、『偽物の親切』というものを以前から批判。
偽物とはどういった意味なのか、本当の親切とは何なのかということについて語っています。
不親切こそ親切
先日、『不親切教師のススメ』をテーマにオンライン講座を行った。
冒頭に掲げた大前提が
親切は最高の美徳 …という言葉である。
この本も、ここを押さえた上で読んでもらう必要がある。
どういうことか。
『不親切教師のススメ』で批判している偽物の「親切」とは次の2パターンである。
A 自分の利益を考えて相手に親切なように振る舞うこと
B 心から親切にしているつもりだが、相手にとって不利益を与えているもの
ちなみにAには「親切ごかし」という、れっきとした日本語がある。嫌われないように何かをしてあげたり、おべっかを使ったりするのもこれである。
例えば次のようなものは、全て親切ごかしである。
・夏休み、周りのみんなも買ってくるから仕方ないという理由で、旅行先でお土産を買ってきて笑顔で配った
・後で陰で文句を言われるのを避けるために、保護者の無理な要求を笑顔でのんだ
・周りの人がやっているからという理由で、面倒だけどせっせと年賀状を書いている
・行きたくない飲み会にも、付き合いが悪いやつだと思われたくないから参加している
どれも、保身のためにいい顔をしているというのが特徴である。実に下らないが、下らないことをやっているという自覚症状があるのは救いである。
次にBのパターンの「親切」である。本にも書いた例をいくつか挙げる。
・4月、靴箱やロッカーのシール貼りや、習字の掲示をしてあげる
・ドリルの〇つけを全部やってあげている
・さぼりがちな子に「勉強しなさい」と言う
・転んでケガをしたりぶつかったりしたら、すぐに駆け寄って心配してあげる
どれも、人によっては「一体何が悪いのか」と思うものばかりかもしれない。そこにBパターンの「親切」の恐ろしさがある。
本物の親切には、長期的な視点が必要である。
それをしたら、続けたら、相手はどうなるのか。
他者依存で他責的で、人が何々してくれないと文句ばかり言う人間に育つ可能性が高まる。恐ろしいことである。
ちなみに、Aの親切ごかしと、Bの「親切」のどちらが悪いか。
断然Bの方が悪い。Aは、我欲のためという自覚、本当は良くないという自覚がある。
一方で、Bは崇高なる「善意」に基づいており、自らの悪行に無自覚で非常に性質が悪い。
Bパターンに陥りやすい人が意識すべきことがある。教育とおもてなしは違うという自覚をもつことである。
高級ホテルや旅館なら、お客様を贅沢にもてなすことが大切である。
テーマパークなら、ゲストに非日常の最高の体験を提供するのが使命である。
それをされたら自分が最高に嬉しいから、人にもしてあげようと思うのかもしれない。
学校は、目的が違う。子どもの成長の場である。
主体性をもち、自立に向けた力を養う場である。それをやることで、子どもの主体性は育つか否かを問いかける必要がある。
やってあげた方がいいこともある。それは、本人が頑張ってもできないことである。
自然、一年生にはやってあげることが多めになるし、六年生、中学生に対しては少なくなる。その場合は本物の親切で、必要なことである。
その親切も続けていると、Bパターンの「親切」になってしまうことがあるという点である。
いつまでもやってあげていたら、いつまで経ってもできないままである。
少し無理をして頑張ればできそうという、痛気持ちいいぐらいのストレッチが大切なのである。
ごくわかりやすい例で言えば、トイレである。親は、幼少期に一緒についてあげつつ、一人でできるように促す。
ずっと一緒にトイレに入ってあげる訳にはいかないからである。(もちろん、子どもが何か身体的な問題を抱えているなら別である。)
これが他のあらゆることにも適用される。いずれ自分でできる力を育むのが教育である。やり続けていたら、それは「サービス」と化す。
先のトイレの例でいえば、ずっと付きっきりの介護状態になってしまう。それは、学校教育の目指すべきことではない。
学校は教育の場であり、言わば親切を主体的に実行できる人間に育てる場である。
社会で役立つとか、人を助ける、人に喜ばれるというのと同義である。それは、自分を生かすということでもある。
親切ごかしや「親切」は、真の親切とは真逆の方向である。だから意図的に「不親切」をススメているのである。不親切こそ、親切なのである。
親切は最高の美徳である。親切を実行できる人間を育てるためにも、不親切教師のスタンスをオススメしたい。
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