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古墳時代に朝鮮半島から渡った石工たちが、戦国大名から石垣づくりを依頼されるようになった理由


2024.08.21 

by 『致知出版社の「人間力メルマガ」』

日本の伝統的な技術を継承してきた宮大工と石工、そのプロフェッショナルたちが今までの仕事や人生観について語りました。 

鵤工舎(奈良県)の総棟梁の小川三夫さんと、十五代目穴太衆(あのうしゅう)頭で粟田建設社長の粟田純徳さんによる、石積み技術に関する貴重な対談を紹介。



古墳時代から続く驚異の石積み技術

「最後の宮大工棟梁」と称された西岡常一氏の弟子としてその技と精神を継承すると共に、自ら立ち上げた鵤工舎(奈良県)の総棟梁として後進の育成に心血を注いできた小川三夫さん。十五代目穴太衆頭で粟田建設社長の粟田純徳氏もまた、古墳時代にまで遡る独自の石垣づくりの技法を現代に脈々と継承してきた。

宮大工と石工、それぞれの道を極めてきたお二人が語り合う、心に刻む先人や師の教え、人生・仕事で貫いてきたものとは。

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<小川> 粟田さんが第十五代目頭を務める穴太衆(あのうしゅう)は、代々この坂本の地で仕事をしてきたのですか。

<粟田> ええ、代々ここを拠点に仕事をしてきました。

ただ、もともと穴太衆は古墳時代に朝鮮から渡ってきた渡来系だといわれています。

最初は古墳の石垣などをつくっていたのですが、次第に棚田の石垣といった生活に直結するものを手掛けるようになりました。

そして788年に比叡山延暦寺が創建されると、延暦寺や僧侶の宿坊などの石垣づくりに穴太衆が動員されます。

その時に石工たちが拠点としたのが当時「穴太」という地域だったため、穴太衆と呼ばれるようになったんですね。

その後、穴太衆の名前が初めて世の中に出てきたのが、戦国武将・織田信長による安土城の築城なんです。

当時の石垣は低いものがほとんどでしたが、穴太衆には長年培ってきた石垣を高く、かつ堅固に積む技術がありました。それに織田信長が着目して安土城に採用したことで、全国の大名たちからも石垣づくりを依頼されるようになっていったんです。

<小川> 具体的には穴太衆の技術は他とどのように違うのですか。

<粟田> 穴太衆が得意とする石積みは、大小の様々な自然石をほとんど加工せず、手で一つひとつ積み上げていく「野面(のづら)積み」(穴太衆積み)です。もちろん自然石には同じ大きさ、重さ、形状のものはありませんから、野面積みの技術は書面などで残すことはできず口伝のみで受け継がれてきました。

<小川> ああ、口伝だけで。

<粟田> 地震大国の日本で、手で積んだ石垣が崩れないのかと思われるかもしれません。

最初の頃は地震で崩れたりしていたでしょうけれども、やはり先人たちは試行錯誤の末に、衝撃に耐えられる積み方を生み出してきたんです。例えば、穴太衆には「石は二番で置けという教えがあります。石の表面から三分の一少し奥のところに重荷が掛かるようにしてうまく積んでいくわけです。

そうすると、地震が来た時、それぞれの石が動いて衝撃を分散してくれるんですね。

むしろ衝撃によって全体が締まり、より強い石垣になっていくように工夫しています。

また、土の「水ぶくれ」による崩壊を防ぐため、石垣の奥に栗石(くりいし)層その奥に小石を詰めていくなどして排水をよくする工夫も施されています。

<小川> 驚くべき技術ですね。

<粟田> 実際、新名神高速道路が開通した際に、集荷装置でジャンボジェット一機分(250トン)の重さを掛け、穴太衆の石垣とコンクリートのどちらが耐久性に優れているか、実験したことがありました。結果、穴太衆の石垣は250トンの重さに耐え、コンクリートは約200トンのところで音を立てて割れてしまいました

<小川> 手積みの石垣がコンクリートより強いことが証明された。私も同じようなことを体験しました。……

(『致知出版社の「人間力メルマガ」』2024820日号より一部抜粋)


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