2021.08.30
文章を書くにあたり何より難しく多くの人の頭を悩ませるのが、その書き出し。
読みづらさを感じさせず、読む側の興味を喚起させるような書き出しを身につけるためには、どんな文章をお手本にし、どこに注意を払えばいいのでしょうか。
朝日新聞の元校閲センター長という経歴を持つ前田さんが、自身が舌を巻いたという2冊の「名作」を紹介しつつ、良い文章の書き出しとその習得法を考察。
* 文章の書き出しはどうする?
文章の書き出しは難しい。いろいろと書こうと思っていることが邪魔をして、一歩を進めないという感じになってしまうことが、多いですね。
僕はそういう時に、参考にしている文章がいくつかあります。
今回は、その文章の紹介をもとに書き出しについて、考えていきたいと思います。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこし明かりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
『枕草子』(清少納言)の書き出しです。
高校時代、ひねくれてひん曲がった日々を送っていた僕は、哲学ということばに引き寄せられて、小難しい本を読んでいたのです。文字を追うばかりでまったく内容も頭に入らないし、理解もできない。
ただ、それ風のものを読んでいる自分に満足していただけでした。
ところが、古典の教科書に載っていたこの短い文章を読んで、なんてかっこいいんだろうと、思ったのです。
こんなに簡単なことばなのに、スーッと情景が思い浮かぶ。
*『枕草子』の書き方を変えてみると…
最初の一文は「春はあけぼの、いとをかし」と続くところかもしれません。
しかし、そこを「春はあけぼの」だけで止める。次に夜明けの様子をたたみかけていきます。
次第にあたりが白くなって、山と空の境が少し明るくなる、紫がかった雲が細くたなびいている、と。
修飾を極力減らして、言い切る。そんな書き方ができるんだ、と僕は思ったのです。
古語辞典を引き引き読んでいた古典が、非常に身近に感じたのです。
しかも、ここに書かれた一連の主題ををポンと最初に置いたところが、潔いと感じたのです。
たとえば、これが
やうやう白くなりゆく、山ぎはすこし明かりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたるゆゑに、春はあけぼの。
のように「春はあけぼの」を最後に持ってきたら、さほど印象に残らなかったかもしれません(この古文が正しいかどうかは疑問なのですが…)。
* 重厚ならいいというものではない
当時の僕は、重厚でデコラティブな方が、説得力のある文章だという思いがあったのです。
当時の西洋文学の翻訳も、すっと頭に入ってきませんでした。
そういうものの方が、ありがたい文章だという刷り込みがあったのかもしれません。
夏目漱石や森鴎外の作品も、旧字体・旧仮名遣いで書かれていたものがまだまだ多く、活字も小さい。
次第に現代仮名遣いのものが増えてきましたが、本を読むこと自体がものすごくエネルギーのいる作業だったように思います。
語彙もないのに、やたらと小難しいことばを使おうとしてつまずいていた自分の愚かさを思い知らされたのが『枕草子』だったのです。
「身の丈で書けばいい」。
それができてから、次のステップを踏むべきなのです。無理をして背伸びをしても、すぐに馬脚を現します。
語彙が少ないなら、それをどう組み合わせてどう表現するかを工夫すればいい。
四字熟語や難しい熟語を使っても、それに染みついた感覚が、却って文章の流れに不自然な渦をつくってしまいます。
柔らかい木の造作にそこだけ金属を埋め込んだような違和感が出る場合もあります。
計算されたものならば、そうした表現も斬新なものとなるかもしれません。
しかし普通は、そこまで文章を突き詰めて考えることはしないので、どこか付け焼き刃のような不自然さが出てしまうのです。
いま、僕は一つの要素で一文を書いて、それを文脈を追って積み重ね、ミルフィーユのように文章を書いていこう、と心がけています。
さらに、文においても文章においても、言いたいことはできるだけ前に出そうとも思っています。
そうした考えの原点になったお手本の一つです。
* 書く真似できそうでできない文章の書き出し
もう一つが『クライマーズ・ハイ』(横山秀夫著・文春文庫)の書き出しです。
旧式の電車はゴトンと一つ後方に揺り戻して止まった。JR上越線の土合駅は群馬県の最北端に位置する。
下り線ホームは地中深くに掘られたトンネルの中にあって、陽光を目にするには四百八十六段の階段を上がらねばならない。それは「上がる」というより「登る」に近い負荷を足に強いるから、谷川岳の山行はもうここから始まっていると言っていい。
「ゴトンと一つ後方に揺り戻して止まった」という部分が、まず旅愁を誘う。
列車が止まるときの車輪やブレーキの音が聞こえてきそうです。
次の土合駅がどういう場所なのかが分かる読者には「ははーん」と思わせ、知らない読者には「群馬県の最北端」への想像の呼び水になります。そして、そこが「地中深くに掘られたトンネルの中」で、要するに地上へ出るには486段の階段を上がらなくてはならない場所だということが提示されます。ここで、通常の駅とは異なることがわかるのです。
486段という数字が、想像の具体性を高めるのに効果的です。
さらに、その階段は「上がる」というより「登る」に等しいのだということが書かれ、「谷川岳の山行はここから始まっていると言っていい」と結ぶのです。
* シンプルな文の積み重ね
一つの要素で一つの文を書いている典型例だと言ってもいいのではないでしょうか。
- 1文目=旧式の電車は揺り戻して止まった
これに「ゴトンと」「一つ後方に」という説明がつきます。
- 2文目=土合駅は群馬県の最北端に位置する
これにも「JR上越線」という土合駅の説明が付くだけです。
3文目と4文目は、読点をうまく使って、その前後で要素を書き分けていているので、読者を誤読に陥らせたり混乱させたりすることはありません。
- 3文目=ホームはトンネルの中にある/陽光を目にするには階段を上がらねばならない
これに「地中深く掘られた」、「四百八十六段」という具体的な説明がつきます。
- 4文目=それは「上がる」というより「登る」に近い負荷を足に強いる/谷川岳の山行はもうここから始まっていると言っていい
ここは、前半部分が一つの要素となって、後半の説明になっています。
非常に端的な文の積み重ねで、少しずつ読者の気持ちを谷川岳に誘導していきます。
箇条書きを積み重ねたような文には、無駄がありません。この四つの文は、土合駅を説明しているだけです。
それにもかかわらず、ここから始まるドラマの予兆を感じさせるのです。この書き方は、真似できません。
* 文章に関わる時間が技術を磨く
『枕草子』と『クライマーズ・ハイ』は、重なる部分が多いように思うのです。
大学の講義や企業の研修などで「短く端的な文を重ねていく方がいい」「伝えたいことはできるだけ前に出そう」「箇条書きのように書こう」などと言うと、「もっと表現を楽しむように書くことが大切ではないか」という質問を受けることがあります。
文や文章の書き方に正解はありません。
読者が誤解しない書き方であれば、それは書き手の個性として認められるべきことだと思います。
村上春樹さんのようにことばを何度も重ねて書いたり、とてもおしゃれな比喩をうまく取り入れたりする手法があります。
野坂昭如さんのように、文がどこまで続くのだろうと思う書き方もあります。
僕はどちらも好きなのですが、彼らはずっと文章に向き合い、その結果として生み出した文体を持ったのです。
それは、誰にも真似できないものなのです。しっかり文意がとおるし、読みにくいと思ったことがないのです。
僕たちが真似をしたら、とても読める代物にはならないでしょう。そこが、プロの作家と僕たちの違いなのです。
僕たちが、彼らのように文章に向き合う時間はありません。
そうであれば、できるだけ誤解のないような文章に仕上げて、読み手の理解を得ることが重要です。
* 好きな作家の文章を書き写す
清少納言や横山秀夫さんの文体がシンプルだからといって、簡単に真似できるものではありません。
一見すると簡単そうに見えますが、ここまでの文章を書くには、相当の時間を掛け、研究を重ねて、練り上げたものに違いないのです。横山さんは元新聞記者ということもあり、遠く及ばないながらも、彼の文体に一歩でも近づきたいと思うのです。
文章の書き出しとは言いながら、結局、文章をどう書くのかというところに帰結するのですね。
みなさんも、好きな作家の文体を原稿用紙に書き写すといいと思います。文章の流れを体感できるかもしれません。
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