2021.08.09
大型書店に行くと夥しい種類の本がズラリと並んでしますが、中でも多くのサラリーマンが足を止めているのがビジネス書のコーナーです。Evernote活用術等の著書を多く持つ文筆家の倉下忠憲さんが、昨今のビジネス書に感じた「物足りなさ」の理由と、多くのビジネス書が誇大な表現を使い続けることによって「置き去り」にしてきたモノについて深く考察しています。
ビジネス書が置き去りにしてきたもの。人文的実用書に向けて
* 圧倒的な物足りなさ
最近のビジネス書コーナーに並ぶ実用書に心躍ることが少なくなってきた。言い換えれば、心に残らなくなってきたのだ。
そもそも書店に並んでいる表紙やタイトルを見ても手に取ろうとは思えないし、気まぐれに手に取った本の目次や内容をパラパラと眺めていても「これ!」という感じはしない。もうこの段階で「買おう」とすら思えないのだ。
私が興味を持つ分野の本であれば、「えいや」と買ってみることもあるが、読み終えるまでの時間はただただ苦痛でしかない。
別に間違ったことが書いてあるわけではないし、文章が下手くそというわけでもない。
ただただ圧倒的につまらないだけである。
たしかにそれらの本は、「わかりやすい」のかもしれない。あるいは、綺麗に理論が構築されているのかもしれない。
しかし、そういった要素はつまらなさを解消はしてくれないし、逆効果であることすらある。
これは極めてまずい状況だと言えるだろう。なぜなら「本」はつながっているからだ。
一冊の本への評価は、その本の評価だけに留まらず、ある種の外部性を持っている。
たとえば、わかりやすいけどつまらない本は、心に残らないばかりか、マイナスの印象が残ることもある。
そうなると、読者は実用書というジャンル全体にマイナスの印象を持つかもしれない。
もしそれがはじめての読書であれば、本というカルチャー全体に不信感を覚えることすらある。
そのようなことが広範囲で発生すれば、本の売れ行きがよくなることは考えられない。
むしろ徐々に悪くなっていくだろう。特に現代では、実用的ノウハウを伝える媒体は書籍以外にもたくさんある。
ある種の「わかりやすさ」で言えば、そうしたメディアの方が優れていることすら珍しくない。
そんな環境において、「おもしろくない本」を一体誰が手に取るだろうか。お金を払って買おうと思うだろうか。
もし、書店に「わかりやすいが、おもしろくない本」が溢れ返っているならば、そうしたジャンルの売り上げは厳しくなって当然である、というのは決して言い過ぎな表現ではないだろう。
* 誇大な表現
売り上げが厳しく、殺伐とした環境になってくると、「売るための工夫」が度を過ぎたものになることは十分考えられる。
「北斗の拳」などで描かれる荒廃した社会では、「ヒャッハー」と言いながら武器を振り回す輩がはびこっているが、それと似たようなことが起こるわけだ。
簡単に言えば、「誇大広告」である。
販売部数を押し上げるための業界の闇、みたいな話はここでは言及しないが、そういうややこしい話を持ち出さなくても、「極端な話」がビジネス書にはびこっている現状は簡単に確認できる。
たとえば少し前までは「hogehogeは××が8割」みたいなタイトルが多かったのに、その割合が少しずつ増えてきて、最近では「hogehogeは△△が10割」にまで到達している。
たしかに、8割より10割の方が「すごそう」だし、「わかりやすく」もある。キャッチーだし、インパクトもあるのだろう。
しかし、それはあまりに極端な表現であろう。度が過ぎた単純化であろう。
特に努力しなくても××ができます、hogehogeをしているだけで成果が得られます、といった「効能」を謳う本たちは、悲しいくらいに事象を単純化しているし、読者の現実を置き去りにしている。
注目して欲しいのは、『独学大全』はそのような効能を謳っていなかった、という点である。
そんなに簡単にはいかないですよ(でも、少しずつなら進んでいけますよ)というのがあの本の全体的なメッセージである。
そういう「わかりやすく」はない本の方が、ヒットしているのである。
このことをビジネス書界隈は注視すべきであろう。
別に「すごくない」話をしなければならないということでもないし、あえて難しい話をしろというのではない。
単に、読者を置き去りにしないというだけの話なのだ。
たとえば、「努力しなくても××ができます」と謳う本を読んでやってみるとする。
しかし、それができないとしたらどうなるだろうか。その本が、「これは誰にでもできます」と謳えば謳うほど、それがうまくいかなかったときの読者が受ける精神的ダメージは大きくなる。
普遍で、平易で、汎用であることを主張するほど、そうできなかったときに自分の劣等感が刺激される。
そういうことが起こりうるのだ。
なにせそのノウハウは「誰にでも」できるはずなのだ。それによって成果を手にできると著者は自信満々に主張しているのだ。それができない自分は、その「誰にでも」にすら入らない劣った人間なのだろう、という推論が働くのは止めがたい。
そうした本たちはこう言う。
「あなたは困難を抱えていますね。でも大丈夫。Aがあればバッチリです。そのAは誰でもできます。つまり、あなたは困難を簡単に乗り越えられます」
しかし、そのAがうまく実践できないのだとしたらどうだろうか。
第一に私は「誰でも」にすら入れない存在だということになり、第二に抱えている困難がもはや解決できないものになる。
行き止まりである。はたしてその状況は、その実用書が目指した状態なのであろうか。
つまり、誇大に効能が謳われるビジネス書・実用書は、その誇大さに問題があるのではない。
現実の読者を置き去りにしていることが問題なのだ。
なぜそれが問題になるかと言えば、それが「実用書」だからである。
実用書は、実践のために書かれている。そして、実践には常に「人」がつきまとう。
人間抜きの実践などありえず、実用の中心には常に「人」がいるのである。
誇大な実用書は、その人を置き去りにする。ノウハウを中心に据え、そのノウハウをとことん「持ち上げる」。
結果として、実践できない人が大量に残されてしまう。
それが理論的な遊びであるならば、どれだけ誇大であっても問題はない。
どれだけ妄想をふるっても構わない。読む人も、それが実践できるものだとは受け取らないだろう。
一方で、それが実用書として語られるならば、当然それは実践可能なものとして受け取られる。
あらゆるレトリックがその実践へと吸収されていく。
ある程度の強調ならば「誤差」で済んだものが、その閾値をこえて吸収できない齟齬として残ってしまう。
そのとき、本の内容が否定できなければ、自分自身を否定するしかない。
そして、実用的なノウハウを必要としている人ほど、本の内容は否定できないのである。
(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』より一部抜粋)
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