この本は、60代だけに向けて書かれた本ではなく、全ての「60代症候群」の人に向けて書かれている。
2019年11月28日
[中谷彰宏,ITmedia]
*「正しい」に、こだわらない
60代は、不安になります。不安になるのは、60代だけではありません。20代でも不安です。
昔は、60代だけが感じていた不安を、全ての人が感じるようになっています。いわば「60代症候群」です。この本は、60代だけに向けて書かれた本ではありません。全ての「60代症候群」の人に向けて書きました。不安になる理由は、「正しい」にこだわるからです。「今までの正しい」を、定年で奪われる気がするからです。
60代はあらゆるものから解放される年齢です。究極は、正しいことからの解放です。
時々、「中谷さんの大ファンで、本は1000冊以上読んでいます。昔の本と最近の本では真逆のことを書いていますが、どっちが正しいのですか」という質問をされます。
これに対して、私は「どっちも間違っている」と答えます。
「どっちも正しいのではないんですか」と聞かれますが、どっちも間違っているのです。
全ては仮説です。今、この本に書いていることも仮説です。
全てのストレスは、どちちが正しいかと考えることから起こります。これがつらいのです。
「どっちも正しい」と言うと、大体の人が「またそんなことを言って」という顔をします。
「どっちも間違っている」という気持ちでいると、「正しい」にこだわるストレスから解放されるのです。
美術史の流れで言うと、日本絵画は、桃山時代に狩野永徳が大和絵の土佐派を吸収しました。スポンサーだった徳川幕府が天下をとったことで、狩野派は国の中心画壇に入ることになりました。本流にいると、「正しい」からはずれることができなくなるのです。
京都本社だった狩野派は、徳川家康について江戸に移って東京本社になりました。京都本社は京都支社に格下げになりました。
京都支社に残った狩野山楽は、逆に自由でのびのびした絵を描くようになりました。
今日、世界で評価されているのは、江戸に移った本社よりも京都支社の狩野山楽の方です。
これを見ても「正しい」ことはしんどいことだと分かります。「正しいことはラク」という思い込みが、正しいことのしんどさを生み出しているのです。
例えば、占い師さんに「これから○○の出会いがあります」と言われました。
ここで「それはいいことですか。悪いことですか」という質問をする人が多いのです。
今、目の前ではいいことでも、それが悪いことにつながることもあります。その悪いことが、結果としていいことにつながることもあるのです。「いいこと」と「悪いこと」という枠組みは、運命の中にはありません。客観的に、ただそれが起こっているというだけです。
50代までは、人間は全て優等生で、正しいことだけを追求してきました。60代で、やっと「正しい」から解放されます。
「正しい」は十分にやってきたので、60代からの人生は「正しい」にこだわらずに生きていいのです。だからといって、悪いことをすればいいということではありません。
「正しい」から解放された向こう側に、もっと自由な広い世界があります。その世界に身をゆだねていけばいいのです。
*道をはずれたところに、道がある
60代の不安は、定年で道をなくすという不安です。道にしがみつくと、ますます不安になります。
禅僧が描く「禅画」という絵のジャンルがあります。絵のプロではないので、のびのび自由に描いています。
プロの画家は、みんな禅画に憧れていました。禅僧は長生きの人が多いのです。
晩年になればなるほど、いい絵になります。死の間際に一番いい絵を描くのです。
禅の発想は、いかに自由になるかということです。
本来、宗教は決まりごとや正しいことを突き詰めてきました。それと相反する世界に「禅」という考え方があるのです。
間違えることを恐れないことが禅の精神です。
50代までは誰しも優等生で、「正解」とか「正しさ」を求めてきました。
目に見えない「正しさ」の道がなんとなくあって、そこからはずれたところは道ではないと思い込んでいたのです。
実際は、道をはずれても、また道があります。道は無限にあるのです。それに気付くのが60代です。
何かに迷う時も、どちらが正しいということはありません。
端的に言うと、ランチのA定食とB定食がある時に、どちらが正しいかという質問に意味がないのと同じなのです。
「どっちが正しいか」と、聞かないことです。
*「自分らしくないこと」が、自分を広げる
自分らしさにしがみつくと、不安が生まれます。自分らしさは考えなくてもいいのです。みんな「自分らしさ」と言いながら、みんなが考える正解に行ってしまいます。正解がつまらないのは、誰にとっても同じだからです。
日本哲学の中の「奇」は、ほかの人と違うことをすることです。
60歳を過ぎて会社を辞めた時に、これから何をすればいいのか分からない人は、「今までと違うことをしよう」と考えるだけで、するべきことが明確になります。
今までしてきたことは先が見えています。同じような仕事を続けたとしても、今までと違うやり方をしてみることです。これが60代でリセットしていく一つの生き方です。
同じやり方を続けていると、その人はどんどん老化していきます。
老化しないで人生を楽しんで生きている人は、今までと違うやり方をしているのです。
ピカソにしても北斎にしても、あれだけコロコロ画風を変えています。今までと違うやり方を何かできないかと常に考えていたからです。
60歳までは会社でうまくいっていたのに、60歳を過ぎて一気に楽しそうに見えなくなる人がいます。
その人は、運を使い切ったからではありません。
60歳を過ぎても今までのうまくいったやり方を続けることの面白くなさがあるのです。
うまくいくかどうかは関係ありません。今までと同じやり方を続けることが、人間の中にワクワクを生まなくなります。
今までと同じやり方は、ラクはラクです。
一見、ストレスがないように見えますが、長い目で見ると、小さなストレスが積み重なっていくのです。
何をすればいいのか分からなければ、何でもいいから今までと違うことをします。または、同じことでも違うやり方をしてみます。違うことをすれば、必然的に違う自分になります。
同じことを違うやり方ですることで、今まで気付かなかった新たな自分に出会うキッカケになるのです。今までと、違うことをすることで、楽しくなります。
*ヘトヘトになるものが、ワクワクする
高校生は学校から帰ってくると、みんなヘトヘトです。夜は爆睡で、気絶するように寝ています。
60歳を過ぎると、ヘトヘトにもならないのです。
逆に、ヘトヘトになれる人は、ワクワクするようなことができている人です。
ヘトヘトには、
(1)肉体的なヘトヘト
(2)脳的なヘトヘト
の2通りがあります。
60代には、どちらかというと、脳的なヘトヘトになるのがオススメです。
そのためには、今までしたことのないことをすればいいのです。
今までしていたことを続けていると、脳は疲れないで、体だけがヘトヘトになっていきます。
私は、週1でコアトレーニングをして10年になります。
1週間の中で、コアトレのある曜日が山場です。コアトレの1時間は永遠の1時間に感じます。
「こんなに難しいことは僕の中でない」と思うぐらい、先生に厳しく鍛えられています。
その時に思い出すのは、私の母親がスパルタだったことです。小学校1年生の時に、母親に腕立て伏せと逆上がりの特訓をさせられました。それを思い出して、「今、僕がさせられているこの特訓ってなんだろう」と思うのです。
自分でも情けないのは、何も難しいことはしていないことです。
先生は軽々としているのに、自分の中ではムチャクチャ難易度が高いのです。
正解が分かっていてできないのではありません。正解が皆目分からないのです。
先生に「もう少しレベルを下げて、基本のところからお願いします」と頼んだら、「これより下はありません。これは脳梗塞をやったおばあちゃんがすることです」と言われました。
コアトレが終わって帰りに靴を履こうとすると、靴のひもが結べません。靴のひもの結び方が分からなくなるぐらい、脳がヘトヘトになっているのです。
ここにワクワクがあります。脳がヘトヘトにならないで、気持ちだけワクワクしようとしてもムリです。
ワクワクしたければ、したことのないことをして脳がヘトヘトになることが大切なのです。
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